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「航海屋」のおやっさん

高校生の頃は、常に太りたいと思っていた。全盛期の体重は55kgで、女物のジーンズが履けるんじゃないかと思うほど、細かった。それがどうだ。26歳になった今、お腹の肉がこんにちは。有酸素運動を怠った結果である。サッカーとフットサルをやり続けたせいで、下半身も若干ゴツくなってしまった。これはいかんと思い立ち、人生初のダイエットを敢行中だ。

つい先日も池袋駅から歩いて帰っていたのだが、そこで悲報を知ることになった。光文社の隣にある、つけ麺屋の「航海屋」が9月末を以って閉店していた。確か8月の上旬だっただろうか。店主急病、入院につきしばらく休業するとの張り紙が貼られていた。張り紙の空きスペースには、常連客が書いたと思われる励ましのメッセージ、謝辞で埋め尽くされていた。

「航海屋」の名物といえば、何といってもつけ麺なのだが、それと同じくらい人気だったのは叉焼おこわ。ランチタイムの時には2杯までおかわり無料とあって、腹を空かせたサラリーマンや、立教大学の運動部がこぞって来店していたそうだ。つけ麺のスープに投入してお茶漬け風味にすると、3倍美味しい。炭水化物+炭水化物の組み合わせは、満腹中枢的には最高だけど、肥満への最短距離でもある。

一人で店を切り盛りするおやっさんの存在も、また名物だった。髪を後ろで束ねて、暇になると厨房の裏でタバコを吸い、お客さんとの談笑を楽しむという、古き良き飲食店の店主。そんな店主の人柄もあって、ラーメン激戦区の池袋においても、安定した人気を獲得していた。

私とおやっさんの出会いは、2年ほど前だったと思う。前から気になってたお店だったのだが、なかなか入りにくいなと感じていたが、意を決して暖簾をくぐった。その日は昼飯を食い損ねたので、随分と空腹だった。つけ麺の大盛りと、名物の叉焼おこわとやらを注文した。おやっさんは「お兄ちゃん、ここは初めて? 結構ボリュームあるよ」と話しかけてくれた。私は「めちゃ空腹なんで、ガッツリ食べますよ」と答えると、「よし、じゃあおじさん頑張っちゃうぞ」と笑いながら厨房の奥に消えていった。味は申し分なし、それでいてこのボリューム。伊達に池袋でお店をやってないな、とグルメ通ぶってみる。

ふと店内を見渡すと、ポイントカード制なるものを解説した張り紙を発見。1回の来店ごとにスタンプを1個押してくれるのだが、10個揃うと「1ヶ月間叉焼おこわフリーパス券」が貰えるらしい。何と素晴らしいポイントカードなのだろうか。店を出る前に、ポイントカードを貰えないかと聞いてみた。すると、おやっさんは「これ欲しいの? これなぁ~! 10個集められちゃうと商売上がったりなんだよ~!」とイタズラっぽく笑った。お客さんの前で平然とアメリカンジョークを言えちゃう人柄に、思わずほっこりしてしまった。

それからというものの、月に1度ないし数ヶ月に1度は航海屋で晩飯を食べた。遅い時間に来店することが多く、暇な時間に来るなよと不満を述べるおやっさんとの会話を楽しみつつ、つけ麺を貪り食ったのだった。こんなこともあった。ちょうど店内にいたお客は私一人だったのだが、おやっさんが信じられないようなことを言った。「ちょっとさ、悪ぃんだけど、タバコ買ってくるから店番しといてよ。今度来た時おまけするからさ」と。このアバウトさ。奔放極まりない言動。ますますおやっさんのことが好きになった。

大雪が降り、道路に残った雪もゆっくりと溶け始めてきた頃。私は極限まで腹を空かせて、お店にやってきた。仕事上でトラブルがあり、イライラしていた。おまけに体調不良。ガッツリ食べて元気になろうと考えていた。おやっさんに「兄ちゃん、ちょっと太ったんじゃねぇか?」と先制パンチを喰らった所で、私の方からお願いをした。「ちょっと死ぬほど腹が減ってるんで、何か作ってくださいよ」。おやっさんは「お、そうか。酸っぱいの好きか? じゃあ、そこの肉入りワンタン(750円)の所を押してよ」。言われるがままに食券を購入し、おやっさんに手渡す。

すると、おやっさん特製のスタミナ肉炒め入りの天津飯が出てきたのだ。もちろん、メニューには載っていない。目を輝かせていると、半ラーメンまで飛び出してきた。「腹減ってるんだろ? 麺も食っちゃうだろ?」。おやっさんの優しさに感謝しつつ、無我夢中でかぶりついた。今まで食べた天津飯の中で、一番美味しかったのは言うまでもない。

おやっさんは疲れていた。体調不良でお店を休むことも増えてきたらしい。朝早くにバイクに乗ってここまで来るのも、めんどくさいし疲れるんだよね。それでも、楽しみにしてくれているお客さんがいるから、俺はやるしかないんだよなぁ。そう語っていた。どんな病気にかかったのかは、わからない。重病じゃなければいいんだけど、お店を営業出来ないレベルなのだから、やはり厳しいのだろう。私はお店の前を通りかかる度に「早く治ってくれないかなぁ」「またつけ麺食べたいなぁ」と思っていた。僅かな希望も虚しく、お店は閉まってしまった。もっと早く、お店に行っていればよかった。ダイエットなんか、どうでもいいのに。

財布の中を覗いてみると、航海屋のポイントカードが挟まっていた。9個まで溜まっていたようだ。あと1個で、叉焼おこわ食べ放題だったのになぁ。もったいないことをしたなぁ。

……とは思わなかった。もう一度おやっさんの笑顔が見たかった。

本当にそれだけだった。


~美味しい料理を作り続けた「航海屋」のおやっさんに捧ぐ~


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