死を選ぶということ。
このコロナ禍で、死を選ぶ人が増えましたね。素敵な俳優さんたち、歌手の方も。
私も「死にたい」と思ったことが何度もあります。恥ずかしながら、鬱の悪化により「苦しい。ざわつく。こんな息苦しいならもう消えたい」と思い、それが辛くて、その不安が治まるまで薬を飲み続けた結果、救急搬送されたこともあります。
このことに関しては、木下理樹ことリッキーに勝手にシンパシーを感じましたが。
鬱の時以外でも、私は喘息で死にかけたことがあります。
でも生きてた。
もし喘息で死んでいたら、娘を産むことも無く、あの子と出会えなかったでしょう。
鬱の時だったら、あの子の心に大きな傷を残していたでしょう。
目のことが分かってからネットで色々見ていたら、同じ病気の方のブログに
「やりたい事はやりましたか?」
という記事がありました。
その中に、目が見えなくなることに絶望して命を絶つ方もいる、と書かれていました。
気持ちはわかる気がします。
病気を知らなければ「老いたのかな」で済んだことが、知ってからは「ああ、この症状がだんだん強くなっていくのか…」と、病を実感するようになりました。
たとえば、マウスポインタが消える。
6.8.9を1度では読めない。
目がチカチカするような感じがする(視野欠損によるものでした)
1度画面から目を逸らすと、それまでやっていた箇所を探すことになる。
などなど、今日の仕事中に気付いたことです。目を凝らせば凝らす程に、チカチカというか、瞬きをすると一部がグレーというか、イマイチ伝わってない気がしますが(笑)、そういったことを実感すると「これがもっと酷くなるのか。色んなことができなくなるなぁ…」と、暗い気持ちになります。
その度に「絶望して命を絶つ方もいる」という一文が胸に刺さります。
命を絶つのは、実は簡単です。
勇気でもなんでもないです。
私も、こんな怖い病気からも、病弱からも、HSPなところからも逃げ出したい。生きづらい。
死んだら終わる。
魅惑の言葉。
気持ちがわかるからこそ、死を選んだ人のことを否定できない。
「生きていればなんとかなる」なんて嘘なのも知ってる。
いつか私は死ぬでしょう。
そしてあの子も泣くでしょう。
その涙は、覚悟はあったけれど悲しい、という涙であってほしい。
だから頑張って生きるのみです。
自信はなくても、後ろを気にしながら前へ進むんです。←クボさんのパクリ
そして願わくば、
老衰で死にたいです。
でもそれは、まだ見えているから言えるのかも、とも思うので、私には死を選んだあの人たちを責める気持ちにも、悲しむ気持ちにもなれません。
ただ、死を選ぶほどに心が追い詰められていたことを想像すると、私の心も痛いです。
メレンゲでも聴いて、
後ろを気にしながら明日も生活します。
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