健康のための早口言葉

最近、トレーニングジムやフィットネスクラブが増えたように思う。

潰れたレストランの跡地や、工事中の幕を見ながら、一体何ができるのかと考えているうちに、気づいたらジムが開店している。インスタグラムを見ていると、スポーツウェアを着て街をランニングする姿をポストするモデルも増えている。

過去(少なくとも僕が生まれて以降)に類を見ないトレーニングブームが来ている。東京に住んでいるからそれ以外の土地のことは分からないが、人びとの関心がスポーツや身体表現に向いているのではないかと思う。来年、日本でオリンピックが開催されることも、関係しているかもしれない。

養老孟司さんが、何かの本で「合理性を重視した都市社会では、頭で考えることは全てコンピュータが代わりにやってくれるようになって、人間はやることが無くなるので、コンピュータには代替の利かない、運動をするようになる」というようなことを言っていた。

確かに、SNSで知らない人の投稿を見ても、サラリーマンとして働く友人の話を聞いていても、人工知能(AI)に仕事を奪われるのでは、という不安が渦巻き、自分にしかできないことについて考え、悩んでいる人がいる。

別に明日AIが人間に取って代わるわけではないことは確かだが、この問題の根本は、都会に住む人間の仕事がほとんど脳内で行うものばかりで、自分くらいの頭の出来だったら他の誰がやっても変わらないのではないか、という疑いにあると思う。

僕も不安だ。果たして、自分の発する音楽や言葉が、自分にしかできない代物なのか、それを確かめるすべがないからだ。これからたくさんの人に知ってもらえばもらうほど、否定されることも増えるだろう。そのとき投げつけられる言葉を、しゃんと背筋を伸ばして鍛えた胸板で受け止められるかは、そのときまで分からない。

たまに、そういうことを考えすぎて身体がだるくなり、動けなくなることがある。僕は基本的に自由にさせてもらえる生活だが、せっかくの自由を悩む時間に費やしてしまう。上を向いて歩こうとしても、知らぬ間に犬のフンを踏んづけてしまうのではないかという、漠然とした不安。歩くのも面倒。

ところが!

ある日、卓球をしてみたことがある。身体のだるさが、映画も書店も喫茶店も拒否してしまったとき、逆に普段行かない場所に繰り出すのはどうかという連れの提案に乗ってみたのだ。これが不思議なもので、プラスチックの球を皮の張った木の板で打ち返すうちに、先までの気だるさが吹き飛んでしまった。意図的に抑えていたのではないかというくらい低かった体温がのぼせるほどに高く、土くれと言っていいほど重かった血液は、風のように身体をめぐる。

もちろん悩みが消えることなどないのだが、その体温が上がっている間だけ、脳を休ませ身体が働いているという感覚で、心地が良くてしょうがなかった。身体を動かすのは高校の野球部以来で、なりふり構わず全身の筋肉を震わせる喜びを数年ぶりに思い出した。

その野球部時代にストレッチをして気づいたことがあって、それは、身体が固い人は全ての関節が固いのではなく、人によって股関節だけ固かったり、足首だけ固かったりと、個性があることだ。僕らは個性と言われると、つい思考回路や発想などに着眼しがちだが、身体にももちろん個性がある。

街を歩いていると、人それぞれ足の長さや歩き方が違っていて、それも個性だと言える。この人はもう少し小股で歩いた方が歩きやすいだろうとか、腕を振った方が元気が出そうとか勝手に考えてしまうが、僕は整体師さんではないから、もちろん想像するだけ。でも、職業適性(これはほとんど脳の適性)があるのと同じで、おそらく歩き方適性や、食べ方適性みたいなものもあるのではないかと思う。

これは、もちろん考えを押しつけようというつもりではないが、しかしそれでも、その人の骨格や筋肉のつき方によって、疲れない動きや、魅力的な所作が人それぞれあるのではないか、という話だ。それをみんながみんな行う必要はないが、自分の身体の個性を知っていると、例えば「なんとなく風邪ひきそうだな」という感覚で、自身の身体からのSOSを受信しやすくなるのではないか。

口の動きにも、適性があると思う。日本人は、日本語の発音には困らないという理由で、無意識に口を大きく開けずに話している人が多い、と聞いたことがある。聞いたことでしかないが、鏡を見ながら話してみると実感が湧く。

そして、口を大きく開けないで生活していると、顔の筋肉が緊張してくる。ストレッチをサボっていたら身体が固くなっていくのと同じことだ。お腹が出てきたなと思えばジムに行けばいいが、口は普段から無意識に使っているから、口が凝ってきただなんて、ほとんどの人が思わない。

そこで、提案したいのが、「健康のための早口言葉」だ。

子どもっぽくて馬鹿らしいかもしれないが、子どもはその溢れんばかりの感情を大きな口で、大きな声で表すが、大人になるとそんな機会はほとんど失われてしまう。かと言って、特に声を大にして言いたいことがあるわけでもない。

そんな人にちょうどいいお題が、早口言葉。最近、「かむかもしかもにどもかも!」という曲を作るにあたって久しぶりに早口言葉に挑戦したが、普段使わない顔の筋肉を使っている感覚があるし、何より若干元気が出る。ほんとに若干。

1. 生麦生米生卵

2. 祝新春ジャズシャンソンショー

3. 隣の客はよく柿食う客だ

以上の3つ、ぜひ声に出して読んでみてほしい。たぶんどれかで噛む。

ひとりで口にして噛んだときに訪れる虚無もちょっと可笑しいし、誰かと言い合って噛んだときの可笑しさはひとしおだ。

もちろん全て滑舌(まずこの言葉が噛みそう)よく言えた人もいるだろうけど、大切なことは、言えるかどうかではなく、むしろ、噛むことだと思う。口の構造も人それぞれだから、自分の苦手な発音が分かる。分かったところで何も意味はないが、ひとつ自分の新しい個性を知ることができる。どれだけくだらなくても、それは間違いなく個性だ。

僕らの悩みは、ほとんど脳内で起きている現象だから、こういう無駄な口の使い方をしていると力が抜けていい。僕が卓球をしてみて感じたように、今ジムに通う人のうち、身体を動かしていることに何とも言えない高揚感や安心感を抱いている人がいるはずだ。

もし、これを読んでくれているあなたがその中のひとりだったら、ぜひ口のストレッチもしてみてください。同じような高揚感と安心感が得られるかもしれません。個性を問われる時代、その個性のリストに、身体もこういう形で参加できたら、自分の代わりはいくらでもいるなんて思わなくなるかも、と勝手ながら考えております。

僕が一番笑ったのは、「ブラジル人のミラクルビラ配り」です。

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