さすらいのノマドウォーカー⑲
マグカップを包み込んだまま放心していたらしい。鈍い痛みが首筋から肩にかけて覆いかぶさっていた。
機械的にカップを口へ運ぶ。ひと肌程度にぬるまったカフェオレは味蕾をなんら刺激しなかった。
それでもカフェインは、その作用を忠実にもたらしてくれた。頭がクリアになり、肩の痛みの層は薄くなった。
カフェインは気から。カフェイン効果は気の持ちよう。
両手では持ち上げ難いとようやく気付いた判断能力は、人差し指をマグカップの持ち手へすべり込ませると残りのカフェオレを一気に飲み干す。指揮系統を通常モードにシフトさせ、数週間ぶりの自宅へと向かった。
最近は郊外でも治安の悪化が不安視されているが、この辺りはそうでもない。空き巣や強盗、ひったくりのたぐいは、まだ他所事だ。まだ覚束ない思考力でも被害者になる確率は低いだろう。
アクセス第一で決めた物件。母の言いつけを守って1階は忌避した。ひさしの無い階段は、どんなに配慮してもコツンコツンと上る人間の存在を主張する。築古なので仕方ないが、階段側の住民は迷惑極まりないに違いない。深夜のコンビニ通いは控えよう。いや、もうそんな心配をする必要はなくなったんだった…。
階段からみて最奥、205号室辿り着いてから鞄をあさる。ああ、まだ脳みそが軟化していない。手際が悪い。
カチャッ
鍵を差し込む前にドアが開いた。
え?
「待ってたよお」
は?
あたかも家人のように入口をあけて歓迎する人物を、まじまじと観察した。
日焼けサロンで加工したとおぼしきタンニングされた肌を、バスタオル1枚分だけ隠している。引き締まった上半身の中で、お腹の部分だけがゆるみかけており、肉体労働もしくはアウトドアスポーツで焼いた黒さではないと、汝実に物語っていた。
部屋を間違えた?
いやいや。いくらぼうっとしてたって階段を上った記憶くらいある。2階建てのアパートなので間違ってもう1階分上ることもないし、隣家の窓が迫っているので向こう側にもう1部屋あるわけもない。
間違えようがない。ああ!半裸の男が唯一身に着けているバスタオルは、お気に入りのフラッグチェックじゃないか!
「さ、入って入って」
半裸の男はなれなれしく腰に手を回してきたので、触れる直前に腕を振り払い、毅然とした態度で誰何した。
「ちょっと。あなた誰ですか?」
一瞬きょとんとした表情を浮かべた半裸は、にやりと口元を歪め、もったいつけたように流し目をおくってきた。
「名乗らないとだめ?」
はあ?だめとかだめじゃないとかじゃない。そもそも名前を聞きたいんじゃない。きさまが何者かを言えってんだ。
「じゃあ、先に教えてよ、名前」
「佐々木です!」
かぶり気味に名乗ってやった。家主の名前を聞けば観念するかと思いきや、逆にくすっと鼻で笑われた。
「あえて苗字?」
なにいっとんじゃこいつは。確かに防犯上、表札をあげてはいない。知っていてとぼけているわけではないのか?それにしたって会話がかみ合わないこと甚だしい。
こちらの憤怒の形相をみてとった半裸のフラッグチェックは不思議そうに首を傾げた。不躾に頭のてっぺんからつま先まで、舐めるように観察したあと、ぼそっとつぶやいた。
「そういえば聞いてたのとちょっと違うかなあ…まあ、俺は気にしないけど?」
遅々として進まない会話と煮え切らないフラッグチェックの男に、怒りが沸点まで到達した。
「あのですねえ!」
次の台詞を繰り出す前の息継ぎに、絶妙のタイミングで差し挟まれた「…あの?」に、ぼこぼこに沸き立っていた怒りはびっくり水をさされたように、しゅんと鎮火した。
半裸男と同時に声がした方角、つまり後方を振り返った。
自分の顎があんぐりと下がるのを意識の遠くで感じた。
佇んでいたのは、金髪のロングウィッグと10cmのピンヒール。バブル期に流行ったとされる身体にぴったりと吸いつくようなドレス、ボディコンで武装した50代と思われる女性だった。
半裸の男の視線は、何度もふたりの間を行き来した。そしてようやく合点がいったのか、金髪に向かって「待ってたよお」とにっこりほほ笑んだ。
へ?
金髪ボディコンは勝ち誇ったように、肩にかかった偽物の髪をさっと払った。重そうなつけまつげでひと睨みすると、お尻を揺らしながら通り過ぎ、入口で待っている不法侵入者の腕におさまった。
半裸男は音をださずに「ゴメンネ」とくちびるを操ると、フラッグチェックをなびかせてドアの向こうに消えた。