映画「Girl」を観たグダグダな感想

こんにちは、多摩湖です。映画の「ガール」を観てきたので、それの感想です。色々。
ネタバレはいっぱいあるから、ネタバレ見たくない人は読まないようにしてね。
あくまで映画に対する評価と感想だから、多摩湖のフェミニズムとか何も関係ないよ。

公式はこちら
http://girl-movie.com

公式ではトランスジェンダーと書かれていますが、主人公のララはホルモン治療を受けてその後の手術も望んで女性として生きていきたいと望んでいますからトランスセクシャルでは?と頭をひねる他に、
その映画とコラボレーションしたアクセサリーが「最後に加えたエッセンスは『X』。それは「ジェンダーレス」「サプライズ」「不特定の何か」そして「ビズ(キス)」を意味する。」って説明が書いてあってララが目指してるのはジェンダーレスじゃないのでは…等々、公式が微妙なラインなのは、まぁ、置いておきましょう。

さて、映画としてどうかというと、多摩湖向けの映画ではなかった、という結論がまず先行する感じです。
私、淡々と日常を描くだけの映画が肌に合わんのです。
ララの「身体」(と、心)が焦点であり、物語らしい物語というものはなく、ララと、ララ自身の身体を中心に描かれるので、それ以外はあくまでララとその身体を取り巻く付属物と言えばいいのでしょうか。そんな描かれ方ですね。
なので、ただただララとその身体にピントが当てられていきます。だからこそ、痛みが生々しく閉塞感もあり、ヒリヒリした映画にはなっているのですが、シンプルに映画そのものとして評価するなら退屈の極みと言えるでしょう。私的にはね。
退屈なので、途中であくびを連発してしまいました。何故かというと、ララと身体にピントを合わせているので、それ以外がボケているからなんですよね。

物語は15歳のララがバレエ学校の入学試験を受け、合格し、やっていけるか8週間様子を見て、それから継続して学び続けられるか決めます、と学校側から言い渡されるところから始まります。
学校側は、ララがトランスセクシャルである事を全て了解しているようですが、それに対して何かを言う描写はありません。
それでララは必死に努力をしていくわけなのですね。
ララは前の学校でもバレエをやっていたようです。まだまだ技術不足だけど、素質があると評価されています。
ですが、不思議なことに、ララは15歳なのにポアントを履くのが初めてだと言うのです。
どういうこっちゃ、と多摩湖の頭は反応します。
ララは、15歳の今二次性徴における男性化を止める薬を注射してもらっています。それがいつから始められたのかは語られませんが、前の学校でも女の子としてバレエをやっていたはずです。
でもポアントを履いていません。普通の子達は12歳くらいからポアントを履き始めます。でもなぜポアントを履き始めなかったのか、物語では語られません。
でも、ララの合格したのは国内でも有数のバレエ学校なのです。ポアントはこれからというのはいくら素質があると言っても、18歳から20歳にはプロデビューしていくダンサーを作るバレエ学校的には微妙なラインでしょう。
まあ、そこは置いておいて、とりあえずララはポアントを履いて踊ることから始めます。これはなんというか、バレエ学校で学ぶ生徒としては非常に厳しいスタートです。
同じ15歳はもうすでにポアントワークを3年はやっているのですから。3年後にはプロとして踊れる生徒を育成する学校の同じ学年のクラスについていくことは無理です。
ものすごいレベルの差があるので、みんなと同じセンターなんかやれません。みんながセンターをやっている間、バーにつかまって延々とエシャペを繰り返している、とかならわかるのですが。

まあそれも一旦おいておきましょう。
そんなこんなで、個人でポワントレッスンを受けて、「頑張らないとこのままではこの学校では厳しいわ」とか言われたりして、とにかくララは頑張ります。
ララが学校に入ってクラスレッスン以外の、座学のクラスで、みんなが自己紹介をしていくシーンで、無神経な教師が、ララに目を閉じさせて「確認しておきたいんだけど、ララが更衣室を使う事に反対な女子はいる?」みたいなことをクラスメイト(男女混合)に問いかけます。
リベラル、人権先進国!とツイッターでは言われるヨーロッパにあるまじき人権意識の欠落ですが、クラスメイトの女子が手をあげたかどうかの描写はありません。
でもまあ、いかにララが傷付けられたかは分かります。が、クラスメイトの女子達がララをどう思っているのかは描かれません。
ララは更衣室では着替えません。トイレで着替えますし、シャワーも浴びません。みんなの前で身体を晒すことはありません。
性器の膨らみを隠すためのショーツを父と相談して買ってみましたが、効果がなかったので、ララは性器に伸び縮みしないタイプのテープを貼り付けて、前貼りのようにして性器の膨らみを潰して隠します。
かといって、バレエレッスン中、ララの身体をジロジロ見ている生徒が描かれているわけでもありませんし、女子達の中に溶け込んでるんだか溶け込んでないんだかよく分からないぼんやりとした描写が続きます。
そして、時々いきなり、どうしてシャワー浴びないの?と問いかけてくるクラスメイトとかが出てくるわけです。
まあ今思い起こしてみれば、私がそれを見逃していただけでそれは意地悪の走りなのかも知れません。
何か試しているのかも知れませんし、身体を見たかったのかも知れませんが、そういう悪意なのかどうなのか分からない描かれ方です。
タオル持ってきてないし、というララにタオルなら貸してあげるシャワー浴びてきなさいよと押し付けられてしまい、ララはシャワーを浴びる事になります。
ララはショートパンツを履いたままシャワーを浴びます。シャワールームには素っ裸になる女子もいますし、水着になってシャワーを浴びている女子もいます。
でも、誰もララの身体の事を見ていません。誰かが話題にする描写もありません。
誰もララの身体の事を揶揄しません。

ララはホルモン治療を始めます。私の身体はちゃんと変わっていくのか、女の子になれるのかと泣いたりします。
胸が思うように膨らんでいかない事に焦りを感じてホルモン量を増やしたいと思います。
でもお医者さんは、半年はホルモン量を増やせないのよ、と言います。
そのララの気持ちは、痛いほど伝わってきます。
ただ、ララはバレエ学校に行っているので、運動量がそんじょそこらの人レベルではないんですよね。
1日5.6時間は踊っているわけです。なんか、理解ある医者、理解あるカウンセラー、いい父なのかは微妙だけどものっすごい理解のある父などがちゃんといてくれるんですが、バレエのフィジカル面について理解している人たちが誰もいません。
バレエのフィジカルは、シス女子も男子も、ものすごく繊細で微妙でフォローアップ必須なので、それがもっと必要なララは孤独であっただろうな、と思います。
ホルモンの作用と筋肉量、運動量とかもうちょっと細やかにケアしたり管理してくれて理解してくれる人がいればいいんだけど、理解されてりゃ孤独がなくなるかっていうと、そんな事ないんだよなぁーという現実もまた痛いほど分かります。

まあ、そんなこんなで、寮で暮らしてる女子達とお泊まり会みたいなのがありまして、ララは寮にお泊まりに行きます。女子会です。
みんなでプールに入ったりしますが、やはりここでも別にみんなララの水着姿に対してどうこう言うこともありません。
で、問題はその夜です。
沢山の女子達がひとりの部屋に集まってファッションショーです。あなた、この服着なさいよとか、ララ、この服似合うわよ、みたいな感じで、ララも服を渡されます。
今、ここで着替えてよ、とか言われます。
ララは嫌だと言います。
すると無神経女子(ララにシャワーを強要した女子かな。顔の見分けがつかないので分からないけど…)が、「服の下のアレ見せてよ」と言います。
ララは嫌だ、やめてと言います。
無神経女子は「シャワーで私たちの裸を見ておいて、あなたは見せられないっていうの?」とか言います。
「あなたは男の子なの?女の子なの?女の子になりたいの?私たちと一緒になりたいなら見せなさいよ、そんなの大した事じゃないでしょ」とか言うんですね、無神経女子が。
なんか、不思議なんですけど、誰も止めないんですよね。
で、ララが追い詰められた上で諦めたように下半身を見せた時、目をそらす女子が一人、じっと見てる女子達もいたりなんか、そんな感じで、フェミニストによっては「ミソジニー炸裂シーンだ!女性憎悪だ!」なんて怒り始めそうなそんなシーンですが、まあ、そのシーンはそんな感じで終わります。
かといって次の日から女子達の態度が変わったのかとかは別に描かれていません。
ただ、ひたすらそういうちまちまちまちま傷付くエピソードがミルフィーユのように積み重なって、ララが追い詰められていく、そういう閉塞感のあるエピソードが続きます。
映画としては、あくまでララとその身体にしか焦点で、ララ視線しかないので、ただただ単調で、閉塞感ばかりが続くし、ララが何を語るでもないので、私はこういう手法でダラダラされるのは肌に合わないんですね。忍耐力が持ちません。
そこに、ん?何だろう?何でだろう?という設定や描写に対する私の疑問もミルフィーユのように積み重なるので、私の方は私の方で、一体この映画は何を描きたいんだろうなんて思ってしまうわけです。

バレエって、レオタードという薄皮一枚になって、鏡と、そして薄皮一枚になっている他人の身体とに囲まれてひたすら己の身体を鍛錬していくものなんですよね。
バレエの中の己を見続ける事は、修行に近い行為だなと思います。バレエを続けるには、己と、そこに写し出される自分を見続けたり、惑わされない力が必要になってきます。
何というか、薄皮一枚にならないといけないバレエ学校に、ララは挑んでいっていて、どう考えてもレオタードになって人に身体を晒さないといけない状態を自ら選んでいるというか、選ぼうとする事が出来ているという前提の、そのラインの微妙な繊細さがズレている映画なので、いまいちララの方向性が掴めないんですよね。

自分はバレエでレオタード一枚になって、レオタード一枚のままの女子達に囲まれているのに、ミロ(弟)の水泳教室で水着姿になっている女性を視線で追ってみたり。クラスの女子達を視線で追うことはないのに。何でやねん、みたいな。
クラスメイトの女子達の、ララへのスタンスも描かれません。クラスメイトの交流はレッスン中もほぼないのです。男子からの反応も描かれません。わざと描いていないのかも知れませんが、それはなんか、演出として意地悪に見えてしまいます。
シス女子もシス男子も反応は多種多様なので、ララを受け入れる子もいるし、気を使う子もいるし、距離を置く子も、無関心な子も、無神経な子も、見下す子も嫌悪する子もいるだろうと思います。
ただ、環境が普通の学校ではなく、プロを作るための学校で、しかも国内有数のエリート校なわけですから、今年ポアントを履き始めたララは、例えシス女子だったとしてもその状態ではライバルになり得ないんですよね。
まあ、めっちゃ努力してみんなについていっているとしたとしても、ララが「君の中性的な魅力がどうこう!」とかって校長先生とかプロデューサーに主役として抜擢されたり、そのまま団との契約が決まってしまったとかされない限り、やっかみも受けないだろな、と思うわけです。
ララは嫉妬され〜とか公式に書かれているけど、嫉妬される程の抜擢を受けているエピソードもあんまりないので、それもまた微妙な感じなんですよね。
バレエ学校を出てプロになりたい子は、他人の事にいちいち関心持ってる暇もないというか。まあ、くすぶってダラダラしてる子や、嫉妬深い性格に難ありの子はララをいじめる余裕があるかも知れませんが。
バレエ学校にいるような女子はいつもダイエットの事で頭がいっぱいでみんな胸がぺったんこですし、胸がない方が踊りやすいですし、時には上半身裸で乳首透けてる衣装で踊ったりするわけでして。
別にいじめがないとかではないけれど、バレエ学校は特殊な環境なので、それを踏まえてララの微細な苦悩を描いて欲しかったなぁと思うわけです。

まあ一番強く言いたいことは、バレエのシーンが全て最初から最後まで顔のアップ!上半身のアップ!顔のアップ!上半身のアップ!の繰り返しなので、全く今何をしているのか分からなかった事がバレエオタにはあまりにも苦しくフラストレーションが激しかったということなのです。
バーレッスンもセンターも、リハーサルも足元が全く映らないので、(ララだけでなく全ての生徒の!)ほんっとうに何をやっているのか、全体がどんな動きをしているのか、まーーーーーったく分かりません。
監督の襟首を掴んでバレエのなんたるかを理解しているのかと問い詰めたいくらい、酷い構図ばかりです。
残念ですが、監督とバレエの解釈違いなのでしょう。
ララのバレエシーンも、他の生徒達のバレエシーンも、見たいのはここじゃない、という顔のアップ、上半身のアップ、ララが上半身を使ってぐるんぐるん回っている、そんな映像ばかりなので、バレエを観たいと思って行くと大変なことになります。
事実私は大変な事になりました。監督とはバレエの解釈違いで同担拒否です!
主人公ララを演じた男の子は、ポアントの訓練を3ヶ月受けたそうですが、監督もレオタード一枚になってバレエのレッスンを受けるべきだった…なんて思うバレエオタクなのでした。
いや、違う。バレエ映画を求めて観に行った多摩湖が負けたのだ。

色々長々と書きましたが、つまり結論としては、監督と「バレエと身体性」について解釈違いだった…ということです。(そんなこと書いたっけ)
多摩湖は監督とバレエの解釈違いで同担拒否です。結論はこれに尽きます。
しかし、ララの痛みや苦しみ、また他者からの無神経にどれだけ傷付けられるかの描写は、淡々としている故に、胸に迫ってきますし、ただただ苦しさに息が出来なくなる感じがひしひしとありますので、性別違和や身体違和を感じている人が見ると、さらにつらいかも知れません。
ララのシンデレラストーリーでも父と娘の心温まるハートフルストーリーでも、拍手喝采のサクセスストリーでもなく、ガラスを爪で引っ掻き続けるような痛みの音を静かに淡々と聞き続ける映画なのです。(本当に最後の最後に救いはあるのですが、最後の最後、数十秒くらいです)
なので、精神が元気な時に観に行きましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?