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マシュー・ボーン「ロミオ+ジュリエット」鑑賞の感想

概要

公演概要

タイトル:
マシュー・ボーンの「ロミオ+ジュリエット」
(原題: Matthiew Bourne’s ROMEO+JULIET)

演出・振付:
マシュー・ボーン(Matthew Bourne)

音楽:
セルゲイ・プロコフィエフ(Sergei Prokofiev)

出演:
ニュー・アドベンチャーズ(New Adventures)

劇場:
東急オーブシアター

あらすじ

舞台は現代の未成年向け矯正施設、「ヴェローナ・インスティチュート」。中世ヨーロッパのような家同士の敵対こそないが、施設に入所している子供達ー権力により抑圧され、傷つけられているーと看守を中心に、物語が展開していく。

鑑賞概要

鑑賞回:
2024年4月21日(日) 12:30

座席:
3階中央

主要キャスト:

  • ロミオ: パリス・フィッツパトリック

  • ジュリエット: モニーク・ジョナス

  • ティボルト: ダニー・ルーベンス

当日のキャスト表。パンフレットの顔写真と見合わせたところ、一部違いもありそうだった。

記録と感想

おことわり

この文は評論ではなく、鑑賞後、自分の記憶のあるうちに心に留まった情景や感想を書き下しておき、記憶を辿る道具とすることを目的としたものである。筆者の気に入った描写の羅列でしかなく、意志を伴った批評が無いことをご理解いただきたい。知識も観点も持ち合わせておらず、ただ目に映った情景を、スケッチするかの如く書き留めるので精一杯なのだ。


セルゲイ・プロコフィエフの音楽のうち、好きなフレーズが印象的な転用をされていたのが印象に残ったので、記しておこう。

第一幕より「騎士達の踊り」(Dance of the knights)

プロコフィエフによる「ロミジュリ」のバレエ組曲と言えば、ロマンティックな旋律を思い出す人も多いことと思う。何種類もの美しい主題が繰り返されるが、私は、中でもこの曲を筆頭に挙げる。重厚なストリングスと金管、トロンボーンの低音。ドラマティックな旋律が格好良くて大好きだ。が、しかし、クラシックバレエでは、騎士がクッションを持ったり、貴族が振袖を翻して、優雅にボックスステップを踏む振付しか見たことが無く、勿体無いと内心ずっと思っていた。とは言え舞台は中世ヴェローナだから、当時の貴族・騎士社会を表現するには致し方ないのだろうと納得していた。だからこそ、時代も舞台もガラッと変えたマシュー・ボーン氏の振付には、よくぞやってくれたという気持ちだ。冒頭の抑圧された矯正施設内の生活で、脅され、怯える子供達、仲間であるジュリエットが看守に連れ去られるのを悲痛感たっぷりに止め、助けようとする友人達(奔走むなしく、ジュリエットは看守ティボルトの毒牙にかかる)。そして、ダンスパーティでロミオとジュリエット、2人の恋心に火がついた瞬間にも使用されていた。どちらもお見事と言わざるを得ない。

英国ロイヤルバレエ団「騎士達の踊り」、振付はマクミラン。

第一幕より「少女ジュリエット」(The Young Juliet)

もう一曲も、同じく第一幕より「少女ジュリエット」。クラシックバレエでは、ジュリエットの初登場シーンとなるこの曲では、まだあどけないジュリエットが乳母の周りを跳ね回ってお人形遊びをし、婚約者の話を持ち掛けられても、どこか他人事。ロミオと出会って恋を知り、大人の階段を上った後と対をなす、ジュリエットの少女性を表現するシーンである。

ボーン版では、矯正施設に初めてやって来て不安でいっぱいの、いいとこのお坊ちゃんであるロミオを、マキューシオら”3バカ”がからかいつつ服を着替えさせながら、仲間として受け入れるシーンに起用されていた。くるくると入れ替わり立ち替わり、ポイポイと服を脱がせては着せる、コメディタッチなシーンに、アップテンポなこの曲はよくハマっていた。

余談だが、キャラクター設定にはロミオの父親は「モンタギュー上院議員」と記載されていた。ビクビクおどおどしたロミオは、不良というよりは、発達上のケアが必要なように見える。体面を気にして、身内の恥とばかりに、息子を施設に放り込む父親。広義的に、「子供らを更生させる福祉施設ーその実、歪な大人達が都合よく運営している、閉鎖的で強権的な場所」を象徴しているということなのだろう。

以降に、印象的だったシーンを断片的に取り上げる。

ジュリエットを苛む虐待

先にも触れた通り、冒頭の「騎士達の踊り」で、ダンサー扮する矯正施設の児童達は、真っ白な制服を着、俯き気味な無表情で、機械的な動きをする。抑圧、抗えない権力、縮こまった自尊心。いかにも悪役然とした看守・ティボルトは、ジュリエットを執拗に追い回し、嫌がるのをものともせずに抱き抱え、別室に連れて行く。
つい先日、パリ・オペラ座バレエ団「マノン」を鑑賞し、同様に「(収監されている)女性主役に固執して性的虐待をする看守」を見たばかりなので、否応なくそれを想起させられた。
必死で抵抗するジュリエットが看護師に訴えても見て見ぬ振りをされる。ジュリエットの友人・フレンチーが助けようと奔走し、警報ボタンを押して非常ベルを鳴らし、警告灯を点けて人を呼ぶも、時既に遅し。皆が目撃したのは、衣服を剥ぎ取られ、所在無さげにうなだれるジュリエットと、その背後に、半裸に近い姿でほくそ笑むティボルトの姿。記号的な演出ながら、強姦の後であることはあまりにも明確で、痛ましかった。

New Adventuresリハーサルより、ジュリエットがティボルトに連れ去られるシーン。特段ねちっこい触り方でもない、シンプルな振付ながら、虐待の加害者としての振舞いと、ジュリエットの恐怖・落胆が伝わってくる。

恋のダンスパーティとバルコニーのパ・ド・ドゥ(PDD)

そして、何と言ってもダンスパーティからのバルコニーのPDDだ。

ミラーボールがキラキラ煌めくパーティ会場。子供達の理解者であるローレンス牧師が企画したものらしい。普段は白い没個性な制服に身を包んだ少年少女達も、この日ばかりは一張羅を着ている。始めこそ男女間に距離があり、ぎこちない様子だったが、一組また一組と踊り出すうちに、空気が変わりはじめる。ただダンスをしていただけだったのが、触れ合い、見つめ合ううちに、思いが膨れ上がり、彼らの激しい心情を表すかのように、音楽「騎士達の踊り」が流れる。
途中、曲調が静かになり、フルートの旋律が響くフレーズは、クラシック・バレエでは仮面舞踏会で2人が邂逅するシーン。つい先日、元英国ロイヤルバレエ団のプリンシパル、吉田都氏のロイヤル時代の演技の映像(恐らくマクミラン版)をSNSで目にしたばかりなので、それも重なり、より胸を打った。
この旋律で、恋に落ちたロミオとジュリエットは、互いに見つめ合い、ゆっくりと旋回しながら歩き、そしてフワフワと浮き上がる。恋の浮遊感を表現するため、周囲の友人達が2人の身体をリフトしたのだった。

ミラーボールが輝くパーティ会場で2人がゆっくりとリフトされる幻想的なシーン。この記事のアイキャッチにも使用した。

看守の目が無くなり、ただ見つめ合う2人。彼らを尻目に、曲が激しくなるにつれ、抑えきれない肉欲に抗えず、激しく互いを貪り出す、男女、男性同士、女性同士のカップル達。その間も、中央に立つロミオとジュリエットは、プラトニックに見つめ合い、手を取り合うのみ。

下手をするとアメリカのスクールコメディのような舞台装置と演出だが、泣きそうなほど心が揺さぶられたのは、プロコフィエフの叙情的な音楽と、ダンサー達の演技力の賜物だ。

New Adventuresのリハーサルから、該当のシーン。少し長いが、未見の方には是非一見いただきたい。

2人きりになった後は、嬉しくて仕方がないという表情で子犬のように駆け回り、じゃれ合う。官能は感じさせずヘルシーで、アハハ、ウフフという声が聞こえてきそうな、幸せな絡み合い。最後に、我慢しきれないといった様子でひとたび口づけすると、走りながら、転がりながら、壁に登りながら、ずっと唇を離さずに動き続ける。はにかみながら、またキスをする。最後に、去り行くジュリエットを追いかけてバルコニーを駆け上り、キスをするロミオ。恍惚の表情を浮かべて余韻に浸る表情は、観客にとっても、遠き日の甘い恋を思い起こさせるほど幸福に満ちていた。

クラシック・バレエでは、マクミラン版とフリードマン版を観たことがある。どちらもとても素敵だったが、愛の応酬が続くこのPDDは、終盤には多少見飽きて、ああ、ようやく終わるのねと思わないでもない。今回のボーン版では、目まぐるしく変わる振付と、ジョナス、フィッツパトリックの2人の、表情含めた演技に魅入られ、一瞬たりとも目が離せず、時が過ぎるのを忘れてしまった。

New Adventuresのステージ動画より、バルコニーのPDD。

マキューシオとティボルトの死

先に述べると、この場面の大まかな展開は、シェイクスピアの原作の通り。まず、ティボルトがマキューシオを殺す。そして、マキューシオを殺された報復として、ロミオがティボルトを殺す。原作はもちろん、映画やバレエの同作に触れた経験のある人なら誰でも知っている展開である。が、ボーン版では、設定・演出のディティールに工夫を凝らし、独自性を打ち出している。

ダンスパーティで心が通じ合い、部屋への戻りが遅くなったロミオとジュリエットを、それぞれ同性の友人達が冷かすという、微笑ましい状況。修学旅行の夜やバチェラー・パーティかのよう。懐中電灯をキャンドルに見立て、厳かに歩いて紙吹雪で祝福する様は、結婚式のようだ。

その後、酒に溺れて前後不覚となった看守ティボルトが登場。ジュリエットの足元に縋り付いて咽び泣いたところを子供達に嘲笑されて逆上し、拳銃を振り回す。その場に居合わせたゲイカップルを侮辱し、その片割れのマキューシオを脅迫して追い詰め、殺してしまう。
原作では、フェンシングでティボルトがマキューシオを突いたのが致命傷になり、最初は平気がっているが息絶える。それを見たロミオが激昂し、報復としてティボルトを刺す、という流れだ。

ボーン版では、脅され、怯えるマキューシオは一方的に射殺される。そして、報復の手を下すのはロミオだけでなく、子供達全員だ。ティボルトに詰め寄り、リンチして、彼が締めていたベルトを抜き取り、ロミオとジュリエットを中心に、全員で力を合わせて絞殺する。曲の流れは覚えていないが、ほぼ原曲を踏襲し、第二幕「ロミオの決意」、死なせた瞬間には「終幕」がかかっていたように記憶している。クラシック同様、ここで幕。

第二幕「終幕」。マキューシオが死に、ティボルトを殺してしまい、取り返しのつかない事態に発展させてしまった感をこれほどまでに表す音楽も無いだろう。

ボーン版の物語では、看守ティボルトは施設の保護対象である児童に暴行・性的虐待をし、酒乱によりまた暴行を加え、拳銃を振り回した後に1人の少年を死なせた、最低最悪の大人として描かれている。その非道ぶりに同情の余地はなく、同行した娘をして「あんな奴、早く死んでほしいと思っていた」と言わしめた。
が、パンフレットを開くと、ティボルトを演じたダンサー陣によって掘り下げられたキャラクター設定として、「ティボルト自身も過去に虐待を受け、少年時代をインスティチュート(矯正施設)で過ごし、愛を知らずに育った」という旨が解説されており、なるほど少し印象が変わった。罪を犯した個人を責めて処罰(今回は私刑による死刑)したところで、問題の根本解決にはほど遠い。社会としてどうすべきかを議論し、アクションを取らねばならない。

2人の幸せな夜、そして結末

ティボルトを殺害した首謀者と目されたロミオは、拘束衣に身を包まれて連行される。一度は退所するが、また再び戻ってくる。ジュリエットがローレンス牧師に頼み込んでロミオの元へ忍び込むと、2人は再び邂逅して、ついに心身ともに結ばれる。
先述のバルコニーのPDD・キスシーンに比べ、ジュリエットがロミオの服を脱がせたり、ロミオがジュリエットの脚を持ち上げて体を密着させたりと、明らかに官能的な表現がふんだんにある。が、不思議と嫌らしさは無く、感じるのは、愛し合う2人がようやく心身共に結ばれたという、安堵に近いカタルシスだ。

愛を育むPDDをひとしきり踊った後、静寂の中、ベッドで抱き合って眠る幸せそうな2人。突如、警告灯が点き、静寂を破る足音が響く。カツ、カツ。

そう来たか、と唸った。

シェイクスピアによる原作では、ロミオのモンタギュー家とジュリエットのキャピュレット家は犬猿の仲で、さらに、ティボルトを殺したロミオは領主より追放を言い渡され、すぐにヴェローナを発たねばならない。狂言心中のきっかけと、悲劇へと展開する設定が充分にある。対して、ボーン版では、ティボルトが消えて平穏になり、2人がようやく結ばれた後に、どういった経緯で悲劇へ転じるのかが、この瞬間まで疑問だった。
そして、振付・演出の意図に気付いた瞬間、心底恐ろしくなった。

足音は、ティボルトのものだった。ドアの窓部分に映る長身の人影。次の瞬間、死んだはずのティボルトが立っており、その手には、彼の首を絞めたベルトを持ち、ムチのように床に叩き付ける。これは、ジュリエットの心が作り出した幻覚。虐待による心的外傷は、加害者がこの世からいなくなった後もなお、被害者を苦しめ続けるのだ。
それに気付かず、狼狽え、逃げ惑うジュリエット。恋人の急変を不審に思い、宥めようと追うロミオだが、ジュリエットの目には、それすらもティボルトとして映ってしまう。という様子を、ロミオ役のフィッツパトリックの後をティボルト役のルーベンスが追うという、シンプルな演出で表していた。
警告灯の点灯も効果的だ。最初は点灯するだけだったのが、ティボルトの姿がはっきりと見えた辺りから、ただ灯るだけでなく、回転し始めた、幻覚に囚われ、錯乱したジュリエットの心情が非常事態であるということを顕著に表すと同時に、一幕冒頭、ジュリエットがティボルトに手篭めにされた際に、止めようとした友人が非常ベルを鳴らした、そのシーンの再現の役割を果たしている。救うために押した警報だったのに、皮肉にも、ジュリエットの心情では、トラウマの象徴となってしまっていたのだ。

錯乱したジュリエットは、隠し持っていたナイフでロミオの腹部を刺してしまい、そこでようやく目が覚める。おぞましいティボルトではなく、愛するロミオに致命傷を与えてしまったことに気付く。もはや取り返しがつかないことを悟り、自身の腹部をも刺して、2人とも息絶える。
原作で2人が最後を迎えた石棺の部屋は、本作では霊安室となっていた。

原作では、ヴェローナの領主が2人の死を悼み、両家に和解を言い渡すという結末である。現代の我々は、虐待の連鎖、暴力の応酬を止めるために、何をすべきか、人事や創作物の中の話として片付けてしまわぬよう、自戒する。

原作との対比、現代ならではの多様性の演出

本作では一貫して、「マスキュリンな男とフェミニンな女」というステレオタイプを打ち破る演出が多かったように思う。

原作において、幼い少女だったジュリエットは、愛を知り大人になるが、あくまでも中世ヴェローナの良家の子女であるジュリエットは、儚く、慈しまれる存在である。最後に狂言自殺がすれ違いを呼び、ロミオが果てたと気付いてようやく、刃物を釣って自害する。
それに引き換え、本作のジュリエットは、タフだ。私が鑑賞したジョナス扮するジュリエットからは、豊かな喜怒哀楽と、脈動する生命力を感じた。ロミオに恋するシーンの、うっとりと妖艶な様。ダンスの身体表現はもちろん、表情や指先、つま先に至る全身で表現する。体を求め合う時には、待ちきれないとばかりにロミオの服を脱がせ、快楽に身を委ねる。自身を追い詰めるティボルトには激しく抗い、虐待による苦しみに悶え、リンチするシーンでは、憎しみを込めて、強くベルトを引っ張って首を絞める。ロミオに手を下すのも、自らの命を断つのも、すべてジュリエットの手による。

対してロミオは、登場シーンからおどおどと自信が無く、落ち着きのない様子。フィッツパトリック扮するロミオは、(彼自身の地顔も相まって)眉が下がりっぱなしだった。「守ってくれる騎士」ではなく、「守ってあげたくなる男の子」像だ。ティボルトとは真逆の、威圧せず紳士的なロミオに、傷付いたジュリエットは絆されたのだ。
それでも、ジュリエットに会い、愛を知り、自分の意思でインスティチュートに戻ってきた。ジュリエットを、自信の無い自分を埋めてくれるだろう存在と目論んだのだろう。

原作ではあくまでもロミオとジュリエットを中心に世界が回るが、本作ではその他にもいくつかのカップルがある。LGBTQを始めとする多様な性のあり方を網羅するには至らないが、ヘテロセクシュアル以外の同性カップルの存在を明確に描いたことには意義を感じた(役名等は不明だが、ダンスパーティの乱痴気騒ぎでは、女性同士のカップルも見てとれた)。

原作ではロミオの従者に過ぎないバルサザーは、本作ではマキューシオと恋人関係にある。ティボルトによるマキューシオ殺害は、インスティチュートの子供達に大きなショックを与えるが、中でもバルサザーが受けた衝撃は計り知れない。二幕冒頭では、放心してベッドに横たわるバルサザーから始まる。やがて起き上がり、悲しみに貫かれながらバリエーションを踊る。フィッシュ扮するバルサザーの演技は、こちらの心も刃物で傷つけられたかと思う痛ましさだった。

その他、本筋のプロットとは直接は関係無いが、この作品を形作る重要なディティールについても、触れておく。

身体は男性だが、フェミニンな服装を好み、恋愛対象も恐らく男性、という人物が描かれていた。ドレッドのような長髪を束ね上げた髪型。ダンスパーティの日、髪に赤い花を付けていた。服装は、タイトなドレスシャツにパンツ、ウエストコート(ベスト)という、それだけ一見するとイタリア風の男性ファッションにも見える服装だが、ウエストコートの裾を引っ張ると、レースのスカート仕様になっていたのだった。ペアダンスは、男女の組合せで踊っていたが、彼(彼女)はいつの間にか女性側に立っている。そうか、あなたはこちら側だったのね。
自分らしくいられたのも束の間、暴君のような看守によって厳しく指摘され、スカート部分をしまって男性の役割に戻ることになるが、彼(彼女)の内に秘めた自己主張を垣間見た瞬間だった。

疑問を覚えた演出

本作の舞台装置は、牢獄のような矯正施設の壁と出入口を表す、2.5mほどの高さの弧を描く壁と、その上のテラス、そこに繋がる階段で構成されている。恋人達のPDDの舞台や施設内の回廊として、本作を通じて効果的に使われている。
バルコニーのPDD後のロミオ、ティボルトに殺される前のマキューシオの2回・2人が、テラスの柵外を歩いていた。建築現場では2m以上の高さに上るのは高所作業と定義され、ヘルメットと安全帯の装着が義務付けられる。私の内なる現場ネコが、高所作業!安全帯!!と警鐘を鳴らした。

もう一点、安全面に関する懸念。
ティボルトを殺すシーンは、リアルにティボルト役のダンサーのベルトを抜き、それを首にかけて後ろから引っ張るのだが、あれは上手くやらないと本当に首が絞まりかねない、危険な演出と思った。

安全確保には細心の注意を払われていると信じたいが、大丈夫と思って二重三重にセーフティを巡らせても起きてしまうのが事故だ。未来ある優秀なダンサー達の労働安全にも留意してほしいところだ。

殺し合った終演後、千秋楽の笑顔が出る演者一同

さらに、言及しておきたい点がある。
ロミオとの情事の後、ジュリエットが虐待によるPTSDに苦しむシーンについて。被虐待経験、とりわけ、性虐待を受けたことのある人にとっては、フラッシュバックを引き起こす可能性があると感じた。エンターテイメントを楽しむためにはネタバレは極力避けてほしいところだが、これについては観客の心理的安全性を優先し、鑑賞前の注意喚起がほしいところだ。チケット販売サイトや劇場内では、該当するものは無かったように思う。

おまけ: 我が家の事情

ティーンネイジャーの娘の反応

今回の鑑賞には、この春中2になったばかりの娘を連れて行った。幼少時はバレエダンサーになることを夢見ていた娘は、努力が苦手で、才能にも恵まれず、既に母子共に、夢は夢でしかないと諦めもついたが、それでも、ただの趣味の一環として観劇している会社員の私よりは余程、表現者としての未来がまだあり得る立場だ。長年の指導者の勧めもあり、良質な舞台表現、とりわけコンテンポラリー・ダンスには極力触れさせたいと、常日頃から考えている(私が)。

今回も、大好きな(私が)ロミジュリをテーマにしたマシュー・ボーン作品とあり、絶対に見せたかった。何と言っても、彼女はジュリエットと同い年なのだ。クラシックバレエの同タイトル作品を鑑賞したことはあるが、今この歳で改めて観ると、どんなにか刺激になるだろう。まして、鬼才と名高いマシュー・ボーン作品だと、期待しつつこの日を待ち侘びていた。

鑑賞直後に、ダンスを見て、どうだった?自分だったらどう表現するかとか、思わない?と訊くと、別に、そんな風には思わない。レベルが高すぎるし、と、素っ気ない態度だった。あら、そう。

だかしかし、帰宅後。ジワジワとこみ上げてきたようで、「今日、私はつまらなそうに見えた?おもしろかったよ、見てよかった。」と、訥々と語り始めた。
「ジュリエットが犯されそうなところは、友達に助けてもらえるのかもと期待したけど、そんなことは無くて、悲しかった。ダンスパーティで、大人がいなくなった瞬間にやりたい放題になったのは、ちょっとおもしろかった。2人が部屋に戻った時や、ダンパで最初にペアになったカップルを冷かしたのは、この年頃にありがちって感じ」とのこと。
少し前まで、少しでも性的な表現があると、照れて、そんなもの、私は見たくないし、親とだなんて尚更気まずい、などと言っていたのに、あの、ダンスパーティで皆が求め合うシーンはモロに性的な表現だったけど、嫌じゃないのと訊くと、別に大丈夫、とのことだった。

アフリカ系ルーツのダンサーの活躍がもたらすもの

今回の公演では複数の公演があったが、平日はなかなか調整がつかず、週末も常に空いているわけではなく、たまたま予定がついたのが千秋楽の一回のみ。奇しくも、アフリカ系のジョナスがジュリエット役の回だった。

極めて個別具体的な事情であるが、我が家は日本と西アフリカ某国のミックス家庭である。

日本で生活していて、実生活でアフリカ系それも女性のロールモデルを見つけるのは、至難の業だ。我が家では娘の幼少時、彼女自身のルーツに誇りを持たせたくて、海の向こうのスーパースターのYouTubeをせっせと見せていた。その甲斐あって、娘は保育園の頃にはレオタードを着て髪を振り踊りながら「ビヨンセごっこ」をしていた。

今回鑑賞した回では、一見して下記3名がアフリカ系ルーツのようだった。

  • ジュリエット役 モニーク・ジョナス氏

  • 親友フレンチー役 ブルー・マクワナ氏

  • フェミニンな男子レノックス役 イヴ・ンボコタ氏

彼女ら・彼らの素晴らしいパフォーマンスと、起用してくれたマシュー・ボーン氏に感謝する。

現在、思春期、反抗期、中二病の名を欲しいままにし、ダンスの道では迷ってしまってうまく前に進めずもがいている我が娘にとって、刹那的にでも道を照らしてくれる存在が見つかることを願ってやまない。大好きなダンスの分野で、ルーツに共通点を持つ表現者の活躍はきっと勇気を与えてくれることと思う。

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