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3月20日という日

この日は、身内の結婚式が行われた日です。
わけあって、身内に代わって結婚式の会場見学に行ったことが、私がブライダルプランナーになるきっかけの出来事でした。

会場を案内してくださったプランナーさんの、キラキラとした表情や言動に、私はたちまち虜になりました。
そして会場見学の後に、ドレスフィッティングでブライダルサロンにも同行し、ブライダルの世界観に一気に惹き込まれました。

結婚式への憧れよりも、そこに携わるブライダルのお仕事への憧れが生まれたのです。

そしてまずは一社、書類応募をしましたが先に進むことはできず。
簡単には諦められない。でも、どこでもいいの?
そんな自問自答の日々が続き、一つの答えが出ようとしていました。

私はその身内の結婚式を担当してもらったブライダルサロンでお仕事がしたい、そう考えるようになっていました。

そしてWEBサイトの求人応募のフォームに、1通目のラブレターを送ります。
後から考えてみたら、まだ身内の結婚式がこれからというタイミングでの応募、無謀でした。
案の定、会社からの返信はないまま、時は過ぎていきます。
後になってわかったことですが、担当する結婚式の親族からの求人応募、かなり困っていたようです 笑

そして、いよいよ結婚式当日を迎えました。
憧れ目線であったとはいえ、お出迎えや受付から全ての出来事に感動し、そして身内の門出に胸がいっぱいで幸せな涙をたくさんながしました。

改めてこの会社でプランナーになりたい。
気持ちを家族にも伝えて賛同してくれました。

そしてちょうど求人サイトに募集があり、意を決して応募しました。
そして、面接に進むことができました。
経験はないけれど、熱い思いがある。そして長年接客業をしてきた自信もある。そう、自分に言い聞かせて面接に向かいました。
家族を担当してくれたプランナーさんがご挨拶に顔を出してくださり、さらにここで働きたいという気持ちいっぱいで、面接に挑みました。
社長直々の面接で、かなり緊張しました。
そして冷静に、今の私に必要なものをさとしてくださいました。
とにかくやる気、会社への告白は悔いなくできたから、もし落ちても後悔しない!

そして数日後、実技試験のようなもので一度、現場を体験しに来てください、という連絡。
感激で頭が真っ白になりましたが、感謝の気持ちを電話口で興奮気味にお伝えした記憶が😅

そして晴れて、大好きになったブライダルサロンで、大好きな先輩プランナーさんの直下で、お仕事できることになりました。

約8年間、駆け抜けました。
駆け出しの間に車の免許をとり、若葉マークを付けながら会場とサロンを行き来し、笑い話にできないような失敗もして、何度となく先輩、仲間に助けられ、社長の担当現場でもやらかし、お世辞にも優等生ではなかった私が、新しくこれから作る会場の担当をさせていただけることになり、大阪と神戸を行き来する日々、まさかの緊急入院で2週間近く穴を空け、それでも駆け抜け続け、デザイナーとタッグを組んで広告のディレクションを行うようにもなり・・・
とにかく、結婚式という日、それに至る過程の日々からは、幸せが溢れていました。
辛くて悔しくて悲しくて、たくさん泣いたけれど、それでも幸せで満たされ続けた日々。

いい意味で、もうこれ以上ここでやれることはない。と決意をしてゴールを決めて、最後の担当は大切な仲間の結婚式。
そして最終日には、大好きな会場の撮影。
最後の最後まで、駆け抜けたと思ったら、私の卒業式を、思い出の詰まった会場でフェアウェルパーティ。
会場の撮影で燃え尽きていた私は、サプライズで会場に強制連行され 笑、そのまま大好きなロックバンドの音楽で入場曲がかかり、会場に入るとそこには社長始め一緒に駆け抜けてきたたくさんの仲間の姿。
そして、これまでの思い出スライドショー。
からの、サロンのオリジナルセレモニーで私も大好きだったフラワーリースセレモニー。
(ゲストお1人ずつ1輪のお花を、新郎新婦の持つリースに刺し、メッセージを伝えていく。それが一つの輪(和)になる、というセレモニー)
このメンバーでしかできない、オリジナルの最高のフェアウェルパーティで送り出していただきました。

この8年間は、好きの気持ちから始まり、やがて使命感が加わりました。
そして、仕事ではなく、志事。

3月20日になるといつも、原点回帰。

大好きなことにひたすらまっすぐに向かい続けた8年間が、私を力強く支え続けてくれています。



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