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アイデンティティを拾い上げにいくの

「アイデンティティを拾い上げに行くの」
そう言って飛んだ大阪での24時間で考えたことを、ここに書く。あと二時間でバスが着く。日常に戻る前に、この自己中心的なことばたちを保存しておきたいと思う。

大阪は四条畷、アートスペース「えにし庵」で、11月2日~4日にかけて「カラダ芸術祭」なる催しが開催された。踊るひと、歌うひと、弾くひと、描くひと、撮るひと、観るひと、作るひと、その他なんだかわからないけど好きなことをやっているひとたちが各地から集まって作り上げる百鬼夜行のようなイベントである。毎年秋、ここで夜行の小鬼になることが、かつての私的恒例行事であった。

「舞踏」というモノをご存じの方が、これを読むかもしれない皆様の中にどれほどいるのだろうか。定義不可能な気もするが、一般的には創始者土方巽の「暗黒舞踏」に代表される、カラダ一つを使った超アンダーグラウンドなダンスとされている。私の父、藤條虫丸は「天然肉体詩人」を肩書として活動する舞踏家であり、「えにし庵」でのイベントを手を変え品を変えほぼ毎年開催してきた。また舞踏集団「The Physical Poets」の座長を務め、「えにし庵」のイベントはこの団体の年に1度の集会の色合いも帯びている。そんな父のもとに生まれた娘もまた、当たり前のようにあちこちに連れていかれ、時には踊り、時には騒いで舞台を妨害していた。

しかし時が過ぎるのは早いもので、縁側に寝かされていた小娘も、いつの間にか就学年齢となる。そして悟るのだ、自分のふつうは世間の同世代のふつうではないのだと。彼女は擬態を始める。排除されたら居場所のない、全校30人の学校。周囲とおなじでなければという強烈な義務感。ツアーのために秋に1週間以上学校を休む理由も、稽古のために週末4時には帰らなければいけない理由も、「ちょっと用事」と苦笑いした。なんで自分だけがこんなことをしなくてはならないのかと悔しかった。
それでも踊ることを拒否しなかったのは、ただただ知らない場所に行くことが楽しかったからだ。特に食べることは大好きだった。大須の商店街のマコロン、八坂神社の前のから揚げ屋さん、モンゴル村の羊料理とバター茶、韓国で連れて行ってもらったポシンタン、屋台のキンパブ…土地の記憶はいつだって食べ物と一緒に蘇ってくる。ついでにいうとかなり自由な子どもで、大崎上島にいったときは村上水軍にハマっていて、弟と二人で大三島神社まで行って鶴姫の鎧を見てきたし、アイカツ!にハマっていた時は行き先周辺のゲーセンを調べて勝手に行っていた。

そんな少女も、中学生にもなると反抗することを覚える。文化祭で演者になったり脚本を書いたりしていたし、部活もあって学校を休みたくなくて、徐々に踊りから離れていった。幸い勉強はできたので、地元の高校には行かず、家を出て寮に入った。

高校生。中3で手に入れたTwitterで、そのワードは特別にキラキラして見えた。高校生になれば、学校の外でいろんなことができる。Twitterが教えてくれた周りの世界の狭さ。海外の大学に行く、という選択肢に出会ったことと相まって、高校生になることは校外活動に参加することだった。高校生何とかキャンプ、とかとにかくそういう名の付くものに参加して、bioを埋め尽くそうとしていた。
そして、そこには当然選考がある。応募動機、自己アピール、熱中していること…誰かと同じでは通らない、とにかくuniquenessを求められる世界線。ここで計算高い少女は気づくのだ。舞踏は使える、と。「××で○○という経験をしたことで、海外に興味を持ちました」「まさにダイバーシティを体現した空間で……」基本的に実用主義者だったから、自分がどう思っていようが、使えるものは使っておけと思っていた。実際このおかげで頂けたチャンスは少なくないだろう。
けれどもチャンスを頂くことは、否が応でも自分のアイデンティティに向き合うことだった。世の中には本当に突き抜けた同世代がたくさんいる。好きと得意と原動力とが一致している彼ら彼女らと比べて、突き詰めた自分には何が残るのか。誤魔化し続けた行為をハッシュタグにする矛盾を無視できなくなった。海外や舞台芸術に興味を持ったきっかけ、とか、多様性を受け入れる、とかそういうことじゃない。私にとって、おどることはどういう意味を持つのか。
それを確かめなくてはと思った。矛盾をそのままにしておいては、コモンアップなんて書けない、という生々しい理由も含め、私はもう一度、踊りの場所に帰ってきた。

7月、父の公演を見に行った。身体性、ということばを思い出した。教科書にあった、前田英樹さんの『絵画の二十世紀』に「動いている人を見ることは、その人とともに動いている自分の身体を感じることだ」という趣旨の記述があったが、まさにそうだと思った。ご先祖様に比べて身体を動かさなくなり脳だけをバーチャル空間に持ち込もうとしている私たちは、動く人をみることで自らの身体性を取り戻しているのかもしれない。舞踏の魅力は、その原初性、土着性にあるのだと思う。

ここで、舞踏の再定義作業は完了したはずだった。少なくともきちんとピースがはまった感覚があった。けれども、Facebookで今年のえにし庵の告知を見て、なぜだか無性に行きたくなった。私を育てたあの空間に戻りたくなった。両親に許可を取り付け飛行機をとった。先生方がこんな感覚的なものに理解を示し欠席を許してくれたことにも、とても感謝している。

実を言うと別に踊る気はなかった。気が付いたら出演者リストに入れられていたというだけの話だ。今思えば、当日に行って稽古もせずいきなりリハーサルになることを理解したうえで出演者にされたのだから、私の心持ちを理解した上での父なりの親心だったのかもしれない。とにかく私は踊ってきた。人生で初めて、自主的に。自分の身体を確かめる感覚だった。裸足で踏む土の冷たさ、燃える火の色、レンズを通さない視界。忘れていたものを取り戻すように、手足を動かした。ああ、私こんな風に動けたんだ。

まぁでも、1年以上は踊っていないのだ。上手いとか下手とかいう問題ではないのかもしれないけど、お客様に見て頂くものではなかったと思う。それが分かっていてやったのだから、完全な自己満足だ。そんな我儘を許容して下さった他の出演者の皆様の思いやりが温かった。

私が今回一番うれしかったのは、家族と、家族のような人たちとの再会だった。私が舞台に戻ってきたことを喜んでくれる人たちがいた。また踊ろうと言ってくれる人たちがいた。こんなに素敵な人たちを兄や姉として、私は育ってきたんだ。そしてその人たちに、「藤條虫丸の娘」という視点でなく、「藤條玉葉」という一個の人間の踊りを見て貰えたこと、伝わるものがあったことが嬉しかった。思えば私はこの分野でも不器用で意固地で、弟妹にすら時々コンプレックスを感じていた。それでも、踊るということへの思いは、ちゃんとカラダに表すことができたみたいだ。

おどることは私にとってどういう意味を持つのか。不器用な私にとって、メイン言語はことばだった。でも身体でしかあらわせないこと、身体と言葉を往還することで見えてくる世界があるのだとしたら、おどることはことばと同じくらい大切なんだろう。

この後はとにかく大学受験をするけど、その後どうなるかは、まだわからない。でもきっと、何かの形で踊り続けるし、書き続けるのだと思う。血は争えないものなのだ。

(cover photo: Eiichi Noguchi)


P.S. これが、えにし庵で私と話して下さったみんなへの、今の私が得た答えです。素敵な空間と時間とやさしさをありがとうございました。しなやかに進みます。

P.S-2 今の私が幼い頃の私をガキだなぁと感じるように、きっとこの青臭さに苦笑する日がくるのでしょう。でもガキだった自分があるから今があるわけで、未来の自分のために、この思いも保存しておこうと思います。

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