中庸と原理主義、あと自由主義についてもうちょっと

昨日、般若心経の話を引き合いに、「解釈ってむずかしいね」というnoteを投稿した。その中で「原理主義(根本主義)」という言葉をつかったけれど、目が覚めてからちょっとばかりこれに関して言及したほうが良いと思ったので、いまこれを書いている。

「原理主義=根本主義(ファンダメンタリズム)」は、もともとプロテスタントの一派をさす言葉で、教典を字義通りに解釈する人々だ、ということを昨日話した。字義通りに解釈するというのは文字通り字義通りで、例えば聖書に

「現に聞くところによると、あなたがたの間に不品行な者があり、しかもその不品行は、異邦人の間にもないほどのもので、ある人がその父の妻と一緒に住んでいるということである。(コリント人への第一の手紙 5-1)」

とあれば祖母と2人暮らししてはいけないし、

「愚かなことが子供の心の中につながれている、懲らしめのむちは、これを遠く追いだす。(箴言 3-9)」

とあれば、必要なら子供を鞭でぶつ。一部の明らかに比喩である表現を除いて、聖書に書いてあることはみんな正しい、という考え方だ。


この考え方は、「自由主義神学」が世の中で大きくなっていった頃反動としてうまれた。自由主義神学は教会の教えも聖書の中に書いてあることもそれはそれとして、教えられたり書いてあることを自分で自由に判断してもよい、というような考え方で、いまはほとんどのプロテスタント主流派はこっち。なので聖書にはいけないこととして書いてある避妊や同性愛なども認める方向に世の中が動いているし、

「愚かなことが子供の心の中につながれている、懲らしめのむちは、これを遠く追いだす。(箴言 3-9)」

と書いてあっても、「これは本当に鞭で叩くという意味ではなく、きちんと叱るべきときには甘やかさず厳しくしたほうがよい」くらいの解釈がなりたつ。

このように書くと、なんとなく「自由主義のほうがいいな。」と思う人の方が多いんじゃないだろうか。ただし、ここにも落とし穴がある。原理主義が一般に問題とされるようになったのは、アメリカの小学校で進化論を教えるか否か大論争になったときで、そのころから「原理主義」という言葉が悪口のようになっていったのだけれど、逆に「自由主義」の人たちの中には「そもそも神様はいっぱいいてもいい」(もちろんプロテスタントはキリスト教なので一神教だ)とか「聖書の時代にMDMAはなかったのだから吸ってもオッケー」というような、かなりいい加減な人々も含まれてくる。言葉の中に含まれる層があまりにも広すぎて端のほうにいくにつれ「それはちょっと待ってくれ!」といいたくなる。

逆に穏健派の原理主義のひとたちと厳格な自由主義のひとたちは、例えば「神様はいるけれど進化論は進化論として別」というふうに科学や文化の面と神学の面をちょっと切り離した立場に立っていて、細かい主張の違いで宗派が違ったりするけれども、おおざっぱに切り分けるとかなり近い。どちらも極端によりすぎると大変難しい事になるけれども、大多数の人々は典型的日本人の私よりちょっと厳格だったり、ちょっと宗教的な日課があったりするくらいで、社会の他の宗教や宗派のひとたちと折り合いをつけながら毎日を普通に生きてる。

ここまではプロテスタント原理主義とプロテスタント自由主義の話。けれど、私のこのnoteは、どちらかというと「自由主義神学」よりということになるだろう。いろんな宗教の言葉や教典やエピソードを自分なりに噛み砕いて、理解してみよう、近づいてみようというアプローチだし、かなりDIY宗教的なところがある。

だが、その中で試しに聖典を字義通りに受け取った行動をしてもいいかもしれない。どんなにがんばっても、進化論を否定することはできそうにないけど。 


註:この聖書の引用はWikisource 日本聖書協会 1955年版 口語訳旧訳聖書/新訳聖書による



これはおひねり⊂( ・-・。⊂⌒っ