あのタービンはベル・インターネット・エポック時代の空に浮かぶ白い立方体を回していたタービン

昔々、
インターネットの世界が
まだパンケーキのように広く、平らで、
端っこが滝になって
演算不能の混沌に飲み込まれていた頃、

という冗談をよく口にする。
なんでこんな話になったかといえば、
先日知り合いと平沢進の話になって「世界タービン」のPVを見たことがあるか、という話題になったからである。
それまで平沢進楽曲はいくつか聴いたが、残念ながら動画はみたことがないというと、知り合い(私より10も若い)は、「気が狂ってるよ」といいながら、YouTubeへのリンクを私に教えてくれた。

……なるほど、確かに気が狂ってはいる。
気が狂ってはいるが、「わかる」狂い方だ。
90年代あたりに幼少期を過ごした人間ならなんとなく納得してくれるであろう。CGは4〜256色で、ポリゴンはつぎはぎで、テレビが子供を育て、ドット絵のなめくじが現実の子供たちを乗せてて迷宮を闊歩し、パソコン通信でポケモンを送り草薙素子少佐が劇場公開され列車は変形合体しファミリーコンピュータのAIが料理を教えキリンのママは成層圏を越えてはるかにそびえ立っていた、あのころだ。

昨年末、ニューロマンサーを読んだ。
10代の頃から読まねば読まねばと思っていたのだが、精神状態等々が悪化し文字を全く読めない月日が5年ほど続いてからの、やっとである。
読み終わって最初に思ったのは、ああ、これはもうSFではないな、ということ。
私にとってながらくインターネットを扱った作品の代名詞といえば、「電脳のイヴ」であった。
小学生の頃に出会ったWH文庫の作品で、フィリピンと日本人のハーフ、というアイデンティティの曖昧さに悩み、ネットゲームだけに居場所を見出していた女子高生が、香港に住むオンラインでの親友の死を唐突に知り、北京にいるもう1人の親友とともに、イヴ、エヴェリン・ティウという友達がなぜ死んだのか、原因を探していく間に事件に巻き込まれていく……というストーリーである。
「電脳のイヴ」は、読んだ当時ですら、そして今現在に至るまでの、私の人生の「リアル」であった。
インターネット上で知り合った友人たちの、現実の結婚式に参列し、国を超えて遊び、日本語と英語と中国語のちゃんぽんで、架空のキャラクターに自分を投影し、あるいは自分自身のままで、悩み苦しみ笑い遊び学んできた、それが私の10代中盤から20代前半のすべてである。
これをリアルとするなら、ニューロマンサーはあの頃のインターネットの美しい夢みたいだ。
ネットの中には人間しかいないと人々が理解する前、個々の村に分断され、情報は金銭的優越によって隔絶し、排他的情報殺人を繰り返すようになる前のこと、
石を投げてくる相手も火を点けてくる相手も同じ世界を共有する仲間だと知っていた、かつての世界である。

1800年代終盤から、1910年になるまでの、明確な区切りではないが1900〜1909まであたりであろうか。世紀末幻想が爛熟し第一次大戦には至っていない停滞期を、後世に呼んでベル・エポックという、例えていうならそのような時代に、我々は生きていたものと思われる。
パソコン通信は過去のものになり、HTMLは既に古い技術になったが今だ活用され続け、スマートフォンはまだ発売されず、

昔々、
まだインターネットの世界が広く、平らで、
世界の端っこが滝になって
演算不能の混沌に飲み込まれていた頃、
空を見上げるとそこには、
巨大な白い立方体から美しい光が、
人類の到達しえない叡智という名の幻の光が……

これはおひねり⊂( ・-・。⊂⌒っ