白黒無常追記 南台橋の場所について

橋の特定

 おそらく江南桥のことであると思われる。この橋は1971年に万寿桥と仓前桥(中洲桥)をつなげて解放大桥と名前を変えた。
詩人の呂有が「渡浮桥至南台」という詩を書いたことに由来するようだ。

宋代にはまだ浮橋で、宋元宇8年(1093年)に120艘の船をロープで繋ぎ、間を木板で埋めて手すりをつけていたとある。元の1322年に木の橋が建てられ、万寿桥とつけられ、清の乾隆年間に石橋がたてられた。石橋が立つまでは木の橋を立てては流されていたという記録がある。

もし橋で首をくくったのが本当なら、少なくとも元の後じゃないかと思える。ここで首を括ったやつの事件記録を探してるんだけど、まだ見当たらない。けっこう橋の記録は大事なので、そこで事件が起きると記録されることがあるのだ。

そのかわりちょっと気になる描写をみつけた。

八閩通志

洪恩靈濟宮在府城南欽仁里。神姓徐氏,兄弟二人,兄曰知証,弟曰知諤,南唐人,詳見《詞翰志》。(五十八巻)

城隍廟在縣治北。舊在縣左,洪武二年,知縣司明徙建今所。 旌福廟在縣治東隅。宋時建,祀縣令陳攄。詳見《名宦志》。咸淳四年賜今額。國朝洪武六年,詔去封號,題其主曰「宋將樂令陳公之神」,命有司歲春秋致祭6。 威靈廟7在縣治南隅。神姓劉名瓊,五代時閩部將也。統兵至將樂,未幾,閩降南唐,眾推瓊為主,瓊義弗納,遂自刎。邑人建祠祀之。宋大觀三年,賜今額8。國朝洪武中,詔去封號,題其主曰「閩將軍劉公之神」,命有司歲春秋致祭。 顯惠廟在縣南水南都。神姓穆名肅,江南人。隋末剌臨汀,政尚清明。秩滿之京,假遭將樂金溪,聞唐受隋禪,義不事二姓,遂投水死。邑人義之,斂其尸葬砂磧,立祠祀焉。凡旱澇札瘥,禱之輒應。宋淳佑六年,賜今額,累贈至王爵。國朝洪武六年,詔去封號,題其主曰「隋汀州刺史穆公之神」,命有司歲春秋致祭, 遺愛祠在縣北隅。祀偽閩鏞州刺史郭顯忠。詳見《名宦志》。(六十巻)

洪恩靈濟宮って名前で兄弟が死んでるのがすごく気になるが、詳細はここになくて、困っている。「これを参照してね」ってかいてある本は見当たらない。

城隍廟は堀と塀の神様である城隍をまつるところで、実は地方自治体ごとに祀られている人が違う。
でも中に祀られている人の名前の記載がある地域とない地域があり、
「〇〇県の城隍廟の主神は誰々で、ほかに誰々と誰々と誰々と誰々と誰々が祀られている」ってかいてあるとこもあるのに、
「〇〇県はどこに城隍廟がある」としか書いてないところもある。

地域の人がなんて呼んでるかにかかわらず結構おふれで「名前をなくしてただ城隍神に戻しなさい、中の人にも個人名を残すのはやめなさい」とかあって、記録に残ってなかったりするらしいので、七爺八爺とか八家将とかそういう呼び方になっているのはこのおふれのためと思われる。

「公に認められてない(法律で県でまつるていわれてない)廟と祠が多すぎる」って歴代の人たちが思ってるらしいことと、「でもその中には国から扁額をもらった廟とかもあるからどうしていいやらわからん」みたいなことがどの地方志にもかいてあるので、南方ではとにかく個人が神様になりがちなことに役所は相当困っていたことがわかる。
廟や祠の記録で白さん黒さんの実態がわかるかどうかはかなり怪しい気がしてきた。

こうなると、あと判例集とかを探すしかないのだが、当時の地方志で、しかも現存してるのをを探して読むのすごく大変なので、この辺はまたいずれってことになりそうだ。

これはおひねり⊂( ・-・。⊂⌒っ