挑戦する勇気を出すには

 どのようなことにも成功する可能性があり、失敗する可能性がある。可能性という観点のみで見るなら、明日死ぬ可能性もある。そんな”可能性”という言葉は往々にして我々の挑戦する勇気を削ぎ落す。ある程度の年になった野球少年は、「プロの選手になれるのはほんの一握りだよ」などと言われるとプロの道を諦めてしまうことも多い。

 私が”可能性”について問うようになったのは大学受験の時である。当時、「倍率10倍くらいだよ」「ほとんどは第一志望には入れないよ」などと様々な人から合格の可能性の低さについて言及された。私は正直言って弱い人間である。受験生という立場がさらに私を弱腰にさせた。”これやって意味あるの?”予備校からの帰り道、深夜の澄んだ空気に踏切の音だけがかすかに響く空間で私は一人自らにそう問うた。このように、私は”可能性”に翻弄されていたのだ。

 一度自らに出した問いの答えを、時間が経過してからひらめくことは少なくない。私は、どのように考えることで可能性の魔力を振り切ることができるか、について一つの考えを持った。

 巷で、「未来は変えられる!」というキャッチフレーズがしばしば耳に入る。そして、気付かないうちに、”未来は変えられる”という固定観念が私を支配しはじめていた。私が可能性に翻弄された原因になっていたのは、おそらくこの固定観念なのではないかと思う。未来は変えられる、というのは少し深く考えると過度な決定論であることに気付く。なぜなら、未来という決定されたものがあることを暗黙のうちに前提としているからである。しかし実際は、挑戦が成功するか失敗するかは決定されているものではないし、未来も決定されていない。くじ引きが、めくると裏に結果が書いてあるように、挑戦や未来は、結果が既に定まっているわけではないのである。何が言いたいのか。それは、”未来は変えるものではなく、0から一つずつ作り上げるものである”ということだ。未来が決定されているものだと少しでも思い込むことは、言い換えると、挑戦というくじ引きの裏にすでに答えが書いてあると思いこむことである。そうなり始めたとき、挑戦の概念を、くじ引きの概念と同じだと考え始める。推測するに、私は受験をくじ引きだと思っていたのだ。挑戦がくじ引きなのだから、可能性を意識するのは当たり前である。挑戦はくじ引きではない。可能性とは、他者の結果の総体であり、他者の失敗と自分の失敗に因果関係はない。

 ここまで述べてきたように、未来は決まっていない。未来を見ようとすると、そこには成功している自分の幻影や、失敗している自分の幻影が見えるかもしれない。しかし、繰り返しになるが、未来は”ある”ものではなく、”つくる”ものである。

 今、受験直前の私と再会を果たしたのなら、私はこう告げるであろう。「失敗するか、成功するか、それを考えるときに可能性の話を持ち出すのは良くない。すでに決定されている未来、のくじが存在して、それが一定の確率で当たる、というようなことではない。成功するか失敗するかは、当日のでき次第だ。一定の能力が発揮できれば成功、できなければ失敗だ。可能性の話ではない。可能性に翻弄されることなく、自分の能力を最後まで磨き続けて欲しい。素晴らしい未来を作ってくれ。」と。

 最後にもう一度。未来は変えるものではなく、0からひとつずつ作るものである。

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