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2024.4.12

4月から長野県の木曽平沢という地区での生活がはじまった。

大学進学がきっかけで東京での生活は8年近く暮らしていたが、4月から長野県の木曽平沢という地区へこの春引っ越した。

長野県は自分の出身地ではあるが、また地元の町とは違う場所で妻と子3人での暮らしになるのでそれなりの不安もあるし、わくわくもしている。

木曽平沢は5年前に一度訪れていた場所だが、
職業訓練校に通うことをきっかけに昨年の秋、再度訪れたところ話が進みいつのまにか住むことになっていた。
不思議な縁を感じる土地。

自分にきっかけを与えてくれたものやひとはいつも同じ場所にあるわけではない。

今年は年始から大きなことが続きそういうことも思う。

木曽平沢に住む一つの理由は自分が4月から上松技術専門校という木工の職業訓練校に通うためであるのだが、その学校の名前を知ったはじめのきっかけは今から10年ほど前の浪人時代に読んだ一冊の本にある。

タイトルも忘れてしまったその本を、読んだ図書館の資料検索で調べたら見つかり、メルカリで購入して改めて読んでみた。

本のタイトルは「崖っぷちの木地屋」
文字の通り崖っぷちの土地に工房を持つおじいちゃんの木地屋さんと上松技術専門校に通っていた著者の関わりや暮らしを描いた本である。

本の中から心に残っている一節を載せようと思う。

「崖っぷちの木地屋」から


「行き合う」。
『広辞苑』には、「いきあう」と「ゆきあう」がある。「いきあう」は「『ゆきあう』とおなじ」とあり、「ゆきあう」は、「進んで行って出会う。でくわす」とある。『日葡辞書』には、「いきあう」と「ゆきあう」があり、それぞれ別の意味が記載されている。「いきあう」は「道で人と出会う」、「ゆきあう」は「行って出会う」。

木曾で人びとは、「行き合う」を「いきあう」という。そしてこの地の「いきあう」は、『日葡辞書』にあるとおり、たまたま「道で出会う」ことであり、「進んで行って出会う」ことではない。

四百年前に編纂された『日葡辞書』を繙けば、今も木曾に我が国の古のことばが息づくことを知る。そして、それは言葉だけに留まらず、木曾には我が国の古の置き土産が転がっていることも教えてくれる。

心して木曾に暮らせば、この地のことばが古の道を辿る良き道しるべとなることに、ある日、私は気づいた。


自分たちはどんなことにばったりと「いきあう」のだろうか。

人やものが持つ言葉にはよいわるいなどはなく、その言葉や音がその場所で起きているなにかを表しているのだと思う。

受ける言葉や音にもその「人」やその方「もの」らしさがあるのだと思う。

ひとつひとつのことばが集まりその土地の雰囲気とか文化ができていくのだと思う。

新しい土地で暮らす、ということは今まで住んでいた場所とは違うことばに出会う機会も多くなるかもしれない。

慣れない土地でGooglマップやGoogleAIなどに頼ってここ数日はバッテリーの減りも早い。
だけど、せっかくなのでなるべく外側の言葉や音にも意識を向けてみようとも思う。

今までにない音がたくさん聞こえてくる。

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