全ての現代人に知ってほしい、グローバル日本人第一号の話。
私は今、アメリカ マサチューセッツ州の、フェアヘイブンという街にいる。
ボストンから南に100km、ニューヨークから東に200km。
電車も通ってない小さな小さなこの港町に、グローバル日本人第一号が育った家がある。
彼の名前は、ジョン万次郎。
多くの方は、一度は聞いたことがある名前だと思う。名前だけかも知れないけど。
記憶に新しいところだと、大河ドラマ「龍馬伝」でトータス松本さんがその役を演じた人物(私、龍馬伝好きなんです)。
(トータス松本さん演じるジョン万次郎)
ホンモノはこちら↑ みんな名前は知ってても顔は浮かばないらしい。
幕末の土佐に生まれ、漁に出た海で遭難し、奇跡的にアメリカの捕鯨船に拾われ、その後10年間アメリカや捕鯨の旅で生活したジョン万次郎。
その後、命がけで帰国し、開国に迫られた日本とアメリカとの関係を影で支えた、知る人ぞ知る「グローバル日本人第一号」である。
彼にまつわるストーリーは、枚挙にいとまがない。
純日本人として初めて英語を話しただとか、坂本龍馬の海外志向に影響を与えた大元の人物であるとか、そんな話が数え切れないほど。
だけど今回、彼のエピソードを通して僕が心底学んだことは、多くの現代人が悩んでるであろう「グローバル化する現代社会との向き合いかた」に関すること。
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今、容赦なくグローバル化していく日本社会に、戸惑いや不安、取り残された感覚を覚える人は少なくないと思う。
なにげない日常の中でも、明らかに外国人の数が増えたと感じる瞬間は多くの方が経験しているだろう。身近に国際恋愛・結婚をしている人だっているかもしれない。
僕自身、本職はスポーツトレーナーとしてしばしば海外を行き来しているのだけど、日々グローバルの第一線で活躍する人たちを見るたび、今でもなんとも言えない戸惑いや無力感、コンプレックスを感じることが少なくない。
10代の若い外国人たちが、英語を操りいとも簡単に世界中の人たちと仲良くなるのを見ると、イヤでも「あぁ、日本ェ……」と思わされてしまう。
そんな折、今回私はジョン万次郎が当時育ったアメリカ、マサチューセッツ州と、生まれ故郷である高知県土佐清水市を訪れた。
昔からジョン万次郎のエピソードが大好きで、そのうち彼のゆかりの地を回ってみたいな〜と思っていた。グローバル日本人第一号として活躍した男の脳みそがどうなってたか?ということに、とても興味があったから。
そして今回、ようやくそれが叶った。
長年の思いが実り、そしてようやくこの記事を書くことができて、まっっこと感無量である。
(龍馬伝ネタしつこくてごめんやで。香川さん演じる岩崎弥太郎、ホンマいい味出してたなぁ)
はじめにご理解いただきたいのだけど、私がジョン万次郎のストーリーを辿って感じたものは、ほぼ全て「精神論」だと思う。
グローバル社会の具体的な生き方や方法論に正解なんてないだろうし、彼の軌跡をたどったとて、今とは時代が違いすぎてるだろうから、ノウハウの参考にはならないかと。
けれど、彼のゆかりの地を回り、当時の足跡を追うことで、「グローバル社会との向き合い方」的なものを垣間見れたと思っている。
単なる精神論に過ぎないかもしれないけれど、とても勇気をもらえる、彼のストーリー。
現代社会でなにかに悩んでいたり、なにかを溜め込んでる人のエネルギーになれればと思うので、最後まで読んでいただけると嬉しく思う。
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ジョン万次郎の物語は、若干14歳にして海で遭難し、他の4人の船員と共にたどり着いた無人島、鳥島から始まる。
ここで万次郎たちは、143日間のサバイバル生活を強いられる。実に壮絶な幕開けである。
アホウドリを捕まえ、海水で洗って生で食べる。雨水を蓄え、少しずつ飲む。それでも水や食べ物はどんどん少なくなり、飢えていく船員たち。
ある資料には、当時のことがこう書かれている。
雨が3ヶ月も降らなかったときには小便を飲まざるを得ず、やがて小便も出なくなった時の苦しみは「言葉にできないほどであった」と万次郎はのちに語っている。皆は背の骨も数えられるほどにやせ細っていた。
想像を絶する143日間だったと思う。自分がこの状況に置かれたら、間違いなく何かの病気で死んでいる自信がある。職業柄、「鳥なんか生で食べたらギランバレーなってまうで」とか余計な心配をしてしまう。
激動の無人島生活の中、万次郎は「奇跡的に」アメリカの捕鯨船に救助され、捕鯨航海ののち日本人で初めてアメリカで教育を受ける。このとき、彼らを救助した捕鯨船の船長が、物語のもう一人の主役であるホイットフィールド船長である。
これは文字だけだと何でもないような気もするが、当時からすると相当やばいことである。
なぜなら、当時のアメリカは捕鯨で獲得できる「鯨油」が燃料として使われていたため、捕鯨業は国をあげた一大産業だったからである。しかも、物語の舞台であるニューベッドフォードは当時、全米の捕鯨船の約1/3の数を所有するほどの町だった。
(ニューベッドフォードにある捕鯨資料館には、当時の捕鯨産業のようすが展示されている)
万次郎が経験したことを現代に例えると、
「砂漠で遭難してるとアラブの石油関係者に拾われて、連れて帰る道中に実践場面を見ながら現地語を覚え、アラブについたら石油を取るための教育までさせてもらって、ついに一人前の石油取りになっちゃった」
みたいな話である。
現代なら、願ったり叶ったりの話。カイジもびっくりの、金持ち街道まっしぐら。まさにアメリカンドリームである。
ともあれ、捕鯨船での長い航海の末、捕鯨の拠点であったニューベッドフォードに到着する。万次郎が、いや日本人が初めて見るアメリカである。
今回、別件でニューヨークに滞在していた私は、バスを乗り継いで約5時間かけ、ニューベッドフォードへ向かうことになった(電車が通ってないと知った時は心底おったまげた)。
目的地に着き、バスを降りて、ニューベッドフォードの街並みを少し歩いてみる。聞くとこの町はアメリカ本土でも歴史が深く、1600年代にイギリス人グループが土地を買って街づくりをしたのが始まりらしい。
どうりで、ヨーロッパ調の街並みが今も残っている。
マサチューセッツ州、ニューベッドフォード。
この街は当時も今も、地方にある小さな港町という位置付けだ。
それでも、かつてジョン万次郎がここを訪れた時は、見るもの全てが刺激的で、その近代文明に目を輝かせていた、と資料には残されている。
多分、はじめて降り立ったのがニューヨークとかなら、万次郎は感動のあまり白目向いて倒れてただろう。
(NY マンハッタン。こんなの見たら、泡吹いて失神してたかもない)
ところで、ニューベッドフォードに限らず、アメリカの景色を見るたび、自分が初めて海外に仕事に行った時のことを思い出す。
不安と好奇心が入り混じった、さながら高校の入学式みたいなドキドキ感を抱えながら現地へとびこみ、日本とは全く違った環境で仕事をしたことを覚えている。グローバル社会をまさに肌で感じた瞬間だった。
言いたいことが言えず、相手の言うこともわからず、常にストレスを抱えていたこと。不公平や理不尽はそこら中にありふれていること。意見を主張し、前向きに交渉しなければ相手にもされないこと。慣れない環境と時差ボケで、仕事が終わるとクタクタになってしまうこと。
どれも初めての経験だった。
タフな環境ではあったけど、それが自分を強くしてくれたことは事実だったし、ザ・資本主義!!みたいに厳しさと自由を全面主張するアメリカの文化は、何度行っても私にたくさんのパワーを与えてくれる(ついでにカロリーもたっぷり与えてくれる)。
そんなことを思い出しながらスマホでuberを予約し、ニューベッドフォードの街を後にする。しばらく乗っていると、ついに彼の育った家がある街、フェアヘイブンへとたどり着く。
ニューベッドフォードと、万次郎が育った家があるフェアヘイブンとは、橋を隔てた隣町という位置関係だ。
ニューベッドフォードのイギリス調の雰囲気とは打って変わって、フェアヘイブンはなんとも古き良き田舎の港町、という感じ。80年代のアメリカ映画にタイムスリップしたかのような雰囲気だ。
車は入力した住所の通り進み、ローカルな住宅街の中に入っていく。
目的地に着いてUberを降りると、そこにはホイットフィールド船長の家があった。この家は現在、ホイットフィールド船長とジョン万次郎のエピソードを後世に伝えるための資料館になっている。
(なんか、思ったよりフツーの家やな)
内心そう思いながら家に入ると、資料館の理事長であるRooneyが出迎えてくれた。
彼と挨拶をかわし、今までの経緯を話す。
Roonyははじめに、こんな話をしてくれた。
「こちらでは小学校の授業で、万次郎の話を必ずやるんだ。日本との友好が最初に生まれた街だとね。このことは街のみんなが知ってるし、万次郎のことを特別な存在だと思ってるよ」
そしてRoonyは、船長の家の中にあるものとそのエピソードを、一つ一つていねいに説明してくれた。
万次郎が実際に過ごした部屋と、復元された机やベッド。当時の暖炉や鯨油ランプ、テクノロジー、船長が航海した記録…
↑これは、万次郎が過ごしていた部屋の、窓から見た景色。万次郎はよくこの景色を見ながら、日本の母に会いたいと言っていたそうだ。ホームシックを感じたことがない僕には、到底理解できない感情である(白目)。
Roonyは言う。
「このフェアヘイブンと彼の故郷の土佐清水市は姉妹都市の関係にあって、毎年ジョン万祭りという催しをやるんだ。一年ごとに、開催地をフェアヘイブンと土佐清水とで入れ替えてね。だから私も、たまに日本へ行くんだよ。ジョン万は賢さと好奇心、そして勇気の象徴だから、それが若い世代に受け継がれてほしいという思いも込められてるね」
僕はふと気になって、「Roonyは、日本や日本人のことをどう思う?」とたずねる。
すると彼は、こう言う——
「日本はとてもいいところだと思うよ。みんな親切だし。ちょっと遠いけど、それがまたいいんだよ。アメリカにはない文化や常識がいっぱいあって。世界に誇れる国だと思うよ。それに気が付いてない日本の人も多いけど、もったいないと思うね」
Roonyのこの言葉を聞いて、すこし複雑な心境だった。彼らにとって「はるか遠くの独自の文化がある国」は、美しく見える。
しかし彼の言うように、僕を含め多くの現代人は、はたして外から見た自国の文化をちゃんと知っているのだろうか、と。
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実は今回、フェアヘイブンに来るすこし前、万次郎が生まれた町である高知県土佐清水市にも足を運び、地元の人たちから様々な話を聞いた。
ジョン万次郎のエピソードは有名なれど、彼の生まれ故郷である土佐清水市を知る人はどのくらいいるだろうか。
宗田節の生産が日本一であり、地元で取れるカツオやサバ、ブンタンなどはめちゃくちゃ美味しい。
一方で土佐清水市は、目に見えたハンデを抱える街でもある。
というのも、そもそもアクセスが大変で、高知市内からでさえ車で3時間以上かかる。電車は途中で途絶え、車でさえも高速道路が町のはるか手前で途切れてしまうため、気軽にふらっといける場所ではない。
(オセロの隅にあるような立地。「東京から最も遠い場所」とも言われたりもする)
地元の人は、こう話す。
「西川くんみたいに、ジョン万が好きで来てくれる人もいるから、外に対してPRしたいんだけど、なかなか簡単ではないんだよね」
人口約14000人で、そのうち60歳以上が56%という土佐清水市。交通インフラや地理的側面もあいまって、他方にPRして回るのは体力的に容易ではない。
インターネットでの発信でまかなわれている部分はあれど、魅力の多くが食や自然の景観、歴史といった「現地現物の鮮度モノ」であるぶん、なおさらである。
(復元されたジョン万次郎の生家。市を主体とした募金で建てられた)
ジョン万次郎の生家を見ながら、地元の方と話をする。
自分の仕事のこと、彼をリスペクトしてここに来たこと。彼の足跡を見てみたくて、近々ニューベッドフォードとフェアヘイブンへ行くこと——
地元の方は、
「西川くん、ほんとに詳しいね〜!よっぽど好きなんだね。万次郎さんもきっと喜んでるよ。地元の僕らよりも詳しいんじゃないかな」
と喜びつつも、どこかすこし複雑そうな面持ちでもあった。
そして、こう続ける。
「ここには、万次郎さんの話以外にも、良いものがたくさんあるんだよ。けどね、ずっとここにいて外に出ずにいると、その良さに気がつきにくいんだよね。外から来る人たちは、西川くんみたいにジョン万が大好きで来てくれて、それがキッカケで土佐清水の良さも知ってくれるんだけど。外に出ないと、自分たちが持ってる良さって気がつきにくいよね」
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こうした話を聞くと、Roonyとの話が頭の中で重なる。つまり、グローバル社会の外からみた日本(人)と、中からみた私たちについて。
私たちは普段、「日本人として〜」みたいなことを、生活や仕事の中であまり考えることはないと思う。日本の中で、日本人に囲まれて仕事をする。多少外国人も混じってはいても、基本的に日本の枠組みの中にいるから、考える理由もない——
当然私もそうだった。だけど不思議なことに私の場合、海外で仕事をする時ほど、日本人としてのアイデンティティについて考え、周囲に表現している自分がいた。そして改めて日本の価値観や感性を見つめ直すたびに、「あ、俺って意外と日本のこと知らんねんな」と気付かされるのである。
同じように土佐清水の出身者にも、都心や海外に出ることで地元や自分たちの良さに気がつく人も多いのだとか。
誰しも、外を知らずして内の良さにはなかなか気がつかないのだろう。
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ベンチに座って話を続けていると、地元の方の一人が「万次郎の資料館に行きたいんだろ?案内するよ」と、連れて行ってくれた。
さまざまな、目をみはる当時の資料たち。
その中に、いくつかの資料に気になる表現を見つける。
「外国人は、日本がよそ者に排他的であることを、とても残念がっている」という表現だ——
(壁に、資料の一文が抜粋されている)
当時の日本は鎖国の影響で、難破した外国の捕鯨船を救助しなかったり、大砲を放って船を鎮めようとしていたことから、「日本人は外国人に対して排他的だ!」といったイメージがついてしまっていたようだ。
ちょうどその頃の万次郎は、ニューベッドフォードでの教育を終え(なんと学校を主席で卒業している!なんてデキたやつや!)、捕鯨の航海で世界中を回っていた頃だったという。
(万次郎が通った航路が、資料館で紹介されている)
万次郎はこの世界中の航海を通じて、アメリカだけでなく世界のあらゆる現状を知ったとされている。同時に、日本がいまだ鎖国状態であること、世界中の人々が日本に対して排他的な国であると評価していること、それが続けば世界に大きく遅れをとってしまい、攻め入られる可能性すらあることも同時に感じた、と。
この4年にも及ぶ捕鯨航海の後、万次郎は日本に帰国することを決める。そして多くの資料では、この当時の万次郎は世界を知りながらも、『あくまで一人の日本人として世界との架け橋になろうとしていた』と説明されている。
グローバル化していく世界と日本との温度差が、なんとなく現代のそれと似ているように感じる。
日本人としてのアイデンティティと言われ、僕が思い浮かべること——
嘘をつかないこと。時間を守ること。相手の話を聞こうとすること。チームの調和を図ろうと努めること。相手を思いやれること。そして、あらゆることに熱心であること。
ただ私たちは、ややシャイで英語が苦手な傾向があるために、海外では誤解されることも少なくない。それでも僕は、グローバルな社会と関わるようになればなるほど、「日本人として当たり前に持っているアイデンティティ」を貫くことが大切だと感じている。
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話はフェアヘイブンの船長家に戻る。
Roonyが、ある資料を見せてくれた。
幕末好きな方には馴染み深いだろう、「漂巽紀略」である。
漂巽紀略とは、ジョン万次郎が帰国した際、アメリカの暮らしぶりや文化、西洋捕鯨のことなど、彼が体験したものを、絵師の河田小龍が書き記したものである。
(高知市、坂本龍馬記念館に飾られている漂巽紀略の写し)
これを見るといつも、龍馬伝の1シーンを思い出す。
「ヌーヨーカー!!」と、河田小龍が土佐の人たちにアメリカの暮らしを紹介しているシーンだ。
坂本龍馬とジョン万次郎は直接会ったことはないとされているが、この漂巽紀略を通して、龍馬の海外志向に影響を与えたというのは有名なエピソードである。
(河田小龍役は、リリーフランキーさんが演じてた。これもええ味やったわ…ほんまに豪華なキャストやで)
このシーンは、何度見てもクスッと笑ってしまう。影から話を聞いてた弥太郎が、キョトン目になっていたのも面白い。
(なに言うてんねんこいつ?って顔)
ところで、漂巽紀略に関して、もう一つ思い出すシーンがある。
アメリカの暮らしや民主主義を説き、「日本も開国すべきだ!」という河田小龍に対し、そんなものはありえない、遠い国の一生交わることのない文化だ、という具合に一蹴する土佐人たちのシーン。
このシーンが実在したのかはわからないけれど、おそらく当時これを大衆に伝えたときは、「こんなものが受け入れられるか!」「作り話だ!」みたいな声が上がったのは容易に想像できる。現代でいう、クソリプの嵐だったに違いない。リアルクソリプの、雨あられ。Twitterで不都合な真実をつぶやくと炎上する、まさにあれである。
その光景を見て、万次郎は何を思ったのだろうか。
そして、少なくても僕にはこのシーンが、「今の日本の風潮とも重なるよな」と感じるのである。外の新しいものや仕組みを紹介する,取り入れることに対する拒絶や批判、あるいは抵抗。漂巽紀略の資料を見るたびに、それを思う。
漂巽紀略を紹介してくれたRoonyに、自分の意見を伝える。流暢とはいえない私の英語から意図を汲み取ってくれたのか、「そうだね、日本はアメリカから遠く島国だから、自分の意思を持たないとこちらのことを知ることはできない。それこそ、万次郎のような体験をしない限りはね。」と返答がくる。
まあ、おっしゃる通りですわ。日本人のことようわかってるなRoony。
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Roonyは別れ際、「遠くからわざわざありがとう」と言った。
けれど、万次郎が当時旅してきたころと比べると、今はなんと世界が近くなったんだろうかと思う。
日本のほぼ裏側にあるこのフェアヘイブンにだって1日で行くことができるし、飛行機が便利かつ安価で使えるようになり、海外へのハードルはぐっと下がった。動画やこの記事のようなテキストも、インターネットを使えば1秒で国境を越えられる。
万次郎がもし現代に生きていたら、きっと好奇心にかられ世界中のあらゆる場所に行って見聞を高めただろう。youtuberになってたかもしれない。そう考えると、僕らはありがたい時代に生まれたものである。日々変わっていく世の中に焦りながらも、自分なりに進んでいかなければ、と奮い立たされる。
グローバル化していく現代に対して、私が思うこと。
多分誰であっても、日本の中だけにいると、世界のどこに自分がいるのか?おそらく気がつかない。これは地理的な意味ではなく、文化や時代の流れの中での自分という意味で。
外の世界を見ていくと、海外と日本の良いところ疑問なところ、何かが見え、何かを感じ、何かを見出すようになっていく。自分の日常しか知らないことが、どれだけ危険なのかも見えてくる。
何がいいのか、悪いのか。その答えは自分自身が出せばいい。だけどいくら時代が変わっても、自分の足で世界を見なければ自分なりの本質は見えてこないと思う。
私たちがほぼ標準装備している日本人としての感性は、今でもビジネスや生活、恋愛、あらゆる場面で世界からリスペクトされているように思う。
グローバル時代は今、日本や日本人が当たり前に持っているスピリッツを見せてほしい、と言っている気がしてならない。ジョン万次郎のように、賢さと好奇心と勇気を携えて——
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Roonyとの話を終え、家を出た頃には、すっかり夕方になっていた。
家のそばには海辺があり、小さな漁船が立ち並んでいる。
まるで物語の中に入ったかのような、穏やかな風景。
このあたりは数百年と景観が変わっていないらしいから、きっと万次郎もこの景色を見たんだろう。この港を眺めながら、彼は何を思っていたのだろうか。
そんな松尾芭蕉みたいなことを考えながら、ニューベッドフォードの宿まで帰路に着いた。
西川 匠(@physio_tennis)
追記 2019.12.1
【ジョン万次郎の生家を修繕するクラウドファンディングを始めました】
この記事を書いてから数ヶ月。
記事中では書いていなかったのですが、実は土佐清水市に訪れた時、ジョン万次郎の生家が年々傷んできており、修繕が必要な段階にきていたということを知りました。しかし、そのための費用が……という状況らしく。
そこで、市の関係者の方とも相談しあった結果、修繕費用をクラウドファンディングで集めようということになりました。
クラウドファンディングの主体は、私西川がさせていただきます。が、生家は公共物であるため、地元団体の「中の浜ジョン万次郎の会」と私が主催とし、土佐清水市や観光商工課に後援という形でご協力いただき、プロジェクトをスタートすることになりました。
この追記を書いている令和元年12月1日からご支援を開始し、月末に終了する予定となっております。
修繕に必要な費用は、300万円ほど。
クラウドファンディングで集めるには簡単ではない金額ですが、記事にもあるようにジョン万次郎のスピリッツを残すためにも、なんとか成功させたいと思っているところです。
もちろん、ただの寄付ではなく、ささやかながら返礼品(リターン)も用意させていただいています。高知や土佐清水の良さをシェアできるいい機会と捉え、全国的に人気な「土佐カツオのたたき」や「清水サバ」「宗田節」などを豊富に準備しています。
また、5000円以上支援くださった全ての方に、生家に支援者のお名前(または法人名)を刻印させていただきます。
もし、ジョン万次郎のエピソードや、僕の記事が少しでも皆様に届いていれば、ご支援を検討いただけるととても嬉しく思います。
クラウドファンディングの詳細とご支援は、以下から承っております。
これからも、「ジョン万スピリッツ」をよろしくお願いいたします!
西川匠
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