見出し画像

花束みたいな恋をしたが流行する世間に憂鬱になるときに考えたこと

花束みたいな恋をした。非常に世相に刺さっているらしい。もちろん映画としては素晴らしかったし本当に細かいところまで人の機微を描いていたと思う。

ただこの映画が流行ってしまう。その背景に潜む憂鬱はどうしたって考えざるを得ない。簡潔にいうと、この映画が強要しているのは汚さや醜さを排除した先にある美しさ。美しい普通の強要。とも言えるかもしれない。

そしてこのことに多くの人が気が付くことができないような罠が張り巡らされている。映画というものはあくまでもフィクションで、作り話である。それがリアルであっても、非現実的であってもそれは物語であって、事実ではない。しかしこの映画はこれは普通だよねと、ミスリードを起こしてしまうような仕掛けがたくさん落とし込まれている。おそらくわざとだ

例えばこんなに趣味の合う二人が偶然電車逃して出会ってしまう。運命的だ。そんな運命的な出会いは如何にも映画っぽい。しかし、ここでマイナス同士の掛け算をする。この二人は一般的な二人ではなくサブカル好きで意気投合する。

普通じゃない出会い×普通じゃないサブカル好き=普通の二人

とまぁこんな感じで、普通が発生してしまう。しかし、この普通の発生に、多くの人は気がつかない。心の中ではこれは映画だと思っても、自分ごとにできるようになる。これが共感の罠だ。


二人の同棲生活の中で、生活のために夢を諦めて就職しちゃうのも普通。お互いの価値観がズレていくのも普通。オダギリジョーと浮気しちゃうのも普通。好きだったものに興味がなくなってスマホゲームばっかりしちゃうのも普通。

こんな綺麗な普通ってあるだろうか。そう見えるように罠がうたれているだけなんじゃないか。

平凡な人間を描くだけでは共感は得られない。だから罠を仕掛けて、この二人が物語の人から、起こりうる現実の私たちへと昇華させる。より普通に見えるように。グーグルストリートビューとかもそういう罠だと思った。

もしかすると普通を嫌悪するというより、普通に恐怖を感じているということなのだろうか。こんなのが当たり前であってたまるかという絶望感。

この二人は最後まで好きとか嫌いとか言わない。付き合うか別れるかしかない。自分が相手にとって特別な存在として扱われる彼氏彼女という立場でいるか、いないのかということが主体の会話。それは自己受容とは程遠い。相手を利用して自分を補っている他者評価の世界。この出会いが最初から終わりの始まりといえるのは、この二人が本当の意味で相手を受け入れるための自分の器を持っていなかったということにあるのかもしれない。

花束みたいな恋というのは、相手に恋している美しい自分のことなのかもしれない。

最終的にこの二人は別れることになる。それは映画の冒頭で描かれることだ。そしてその二人は新たなパートナーと幸せそうにしている。これも罠だ。実際には別れてしまった相手の幸せを願う人もいるだろう。しかしそれは願うということであって実際に幸せであるということでもなければ、幸せかどうか知るということでもない。別れるということは会わないということだ。本質的には会わない人はいないのと同じだ。だからこそ、この世界のどこかにいるかもしれない人のことは願うことしかできない。ただ願うというだけである。願うというのはそういうことだと思う。

そういう意味では、最後のシーンだけは受け入れ難い。偶然出会ったとして、相手にすでにパートナーがいたらな、そっと互いを見なかったフリして終わり。


追記:文化の喪失

彼らから文化が奪われたことにも触れたい。彼らには文化があった。自分たちの好きな文化。それが社会に放りだされたときに、そこに社会的な立場としての自分という振る舞いを強制された。その中で失っていく文化。


追記:視点の違いと、社会的なステージ、文化的なステージ

この普通な感じにめちゃくちゃ違和感を持ってしまった自分はもしかして、何かしら屈折した視点があるのかと、感じるようになった。イニシエーションを描いているといえばそれまでなのだが、それだけではない何かがそこにはあるのではないかと。そこで考えたのが社会的なステージや文化的なステージということだ。

学生から社会人というステージに上がる際に直面した問題が後半部分の大きなズレになっているという風に最初は考えていた。そこで社会の中で労働の中で自らが構造主義的な立場で振る舞いを規定されているのだと。社会的なステージによる変化。

それ以前に、もしかすると彼らは最初から社会に対する視点が違ったのかもしれないとも考えるようになった。東京育ちか、新潟育ちかという視点。ここが抜けていた。あるいは上京した者とそうでないものの違い。

別にそういうバックボーンが違うからといって相容れないとは思わない。だからと言って無視もできない。合わせて親とかの影響もありそうだなぁと感じた。広告代理店の罠

そういうものを乗り越えて違いを楽しめるというステージに達していないということなのかもな。あとは話し合えるということ。ちゃんと腹割って話せるかどうかってこと。言葉を選ぶ人間。損得を考えて発言する人間。

考えれば考えるほど闇が深いなこれ



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?