見出し画像

僕が妻の一周忌に参加したくなかった理由

2019年4月20日は妻の一周忌でした。
命日は、2018年4月24日なので、明日でちょうど1年になる。

一周忌というのは、故人が亡くなってから一年目の命日に行う法要。

かなり反感を買うかもしれないが、僕は一周忌をしたくなかった。

親戚が集まって、お坊さんのお経と話を聞き、お焼香をあげ手を合わせる。
それなりに高いお金を払っているせいか、なんとなく故人のためになることをした気がする。
妻の仲が良かった人達を集めて、美味しいご飯でもご馳走して、皆が喜ぶ姿を天国から見てもらった方が良いんじゃないかと思ってしまう。
でもそんな事は言えない。
世間的には一周忌をするのが当たり前になってるし、妻の両親に「一周忌やります?」なんて聞けば、きっと僕の神経を疑われるだろう。

でも僕はこう思っている。

誰にでも、振り返りたくない過去がある。
誰にでも、忘れたい過去がある。

それが僕にとっては、亡き妻との思い出になってしまった。
妻の死という事実と共に、楽しかった記憶も一緒に忘れたい。

今の世の中は、スマートフォンが普及して写真も動画も鮮明に残る良い時代になりました。
データもクラウドにあるおかげで消える事は無いし、いつ、どこで、だれと写っている写真かも簡単に探せるようになりました。

ああ、この日は家族で伊豆に行ったんだ。
ああ、この日は家で誕生日会をやった日だ。

楽しかった思い出を振り返って、「この時は楽しかったね」とか「お母ちゃんの分まで一生懸命生きような!」なんて思えると思っていた。
実際は「この頃に戻れたらどんなに幸せだろう」と、今が決して不幸せな訳じゃないのに、気持ちが暗く落ち込んでしまい、涙を流してしまう。

こんな風に後ろ向きな気持ちになるくらいなら、楽しかった頃なんて思い出さない方がずっと良い。一周忌のように、故人を思い出すような行事なんかしたくない。すっかり忘れて生活する方がずっと楽だと思ってしまう。

「お線香は、亡くなった方のごはんです。毎日仏壇にお供えしましょう」

無宗教なせいか、「そんなのは、仏壇と線香が売れないと困る業界の販売戦略だ!」とも思ってしまう。
亡くなった人の事を忘れるというのは、本当に聞こえが悪い。
故人に対する敬意は無いのか、思いやりのかけらも無い奴だと思われても仕方ない。

けれども、残されて生きる僕の気持ちはこうだ。
「忘れられないと、生きていけない」
遺影を見る度、話を聞く度、どんな場面でも思い出してしまう。
けれども、もうどんなに頑張っても亡くなった人には会えない。
天国の妻は悲しむかもしれないけれど、思い出さない方が僕は幸せなのだ。

僕が妻の死後半年足らずで婚活を始めたのには、そういった意味がある。
娘と自分が幸せになるために、それが一番良いと思ったからだ。

僕が死んだ時には、お墓も要らないし仏壇も要らないよと家族に伝えたい。残された家族に幸せになってもらうためには、それが一番だと今は思うから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?