橋本治と巨人の星・最終回

かつて広告批評という雑誌があった。その名のとおりさまざまなメディアにあらわれるさまざまな形の広告について紹介したり批評したり、という形をとりながら、毎月の特集は文化・社会・政治などなど極めて刺激的なトピックをあつかう、充実した雑誌であった。そしてこの雑誌の巻頭で毎回社会時評・文化時評を数ページにわたって書き続けていたのが、ほかならぬ橋本治であった。広告批評の顔といっても過言ではなかった。
橋本が死去した際、この雑誌の中心人物であった天野氏・島森氏などがすでに鬼籍に入っていたために橋本の追悼特集に加わっていなかったことはまことに残念である。
さてこの雑誌において橋本が行った仕事のうち、きわめて異色というか特異というかケッタイな企画が、マンガの連載であった。数々のマンガ評論をものにし、マンガを愛好すること明らかであった橋本だが、マンガ家になりたいと思ったことはただの一度もなかったそうである。昭和の大ヒット曲「昭和枯れすすき」のジャケットを手掛けるなど本職のイラストレーターであり、のちに小説家になる橋本が、マンガ好きでありながらマンガ家になる気がまったくなかったということも興味深い事ではあるが、ここにきて評論というか表現の一手段としてマンガを選んだということはそれ以上に興味深い。
連載第一回目が掲載された雑誌を筆者は所有しているのだが、手元にあるのだが手元にないという、個人蔵書においてしばしば起こる現象によって、正確に引用することはできない。よって記憶をたよりに解説していくしかないのだが、まず、かれがこの一編で表現しようとしているのは、ひとことでいえば“混乱”である。文章によって混乱という概念を表現することは勿論可能である。しかしながらそもそも混乱していない文章を読解することでさえ、ある程度のリテラシーが要求されることは避けられない。ましてや意図的な混乱状況を文章のうえで表現して、読者を混乱させずに表現された混乱をのみこませる、ということはかなりの困難であろう。しかし、もしもそれがマンガ表現によって行われたとしたらどうか。一目瞭然となるのである。
やっと巨人の星の話がでてきた。橋本はかれの卓越した描画表現力を駆使して、巨人の星とガラスの仮面という、描線においてはまったく異なっているが、ストーリー展開において類似的傾向をそなえた二作品を意図的に混交して描いてみせたのである。星一徹が姫川亜弓に呼び掛けたり、北島マヤが飛雄馬の名を口にしたり、意味もなく野球中継のアナウンサーが描かれたり、といった一目瞭然の混乱が全編にわたって繰り広げられる。両作品を愛する読者にとってはただ眺めているだけでとてつもなく楽しいのだが、橋本の意図するところは、すなわち「物語の作者が状況を整理できずに無責任に書き連ねていくと、読者はなにも理解できずに混乱するだけですよね。この無責任な作者というのは、じつは現代社会そのものなのですよ」ということなのである。
ちなみに筆者がこの一編で一番好きな箇所は、冒頭の「あっ 川上監督が出てきました」というひとコマである。講談社コミックス第十三巻、大リーグボール打倒をめざすアームストロング・オズマに対し、リリーフとして飛雄馬をぶつけてくる川上のシーンである。橋本がこのコマを選んだことにはおそらく大した意味はない。しかし、この夏目房之介ばりに丁寧に模写されたシーンをながめていると、巨人の星にたいしてさほど愛好する気持ちのなかったであろう橋本が、少なくともこのシーンを模写しているときだけは巨人の星という作品の中に入り込んでいたであろうことが想像されて、好ましい思いになるのであった。(橋本治と巨人の星・完)

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