誰かにとって必要なこと

3度目の緊急事態宣言が延長されました。
今回の宣言で、各方面の不満が爆発寸前まで来ているように感じ、これからどうなるかとても不安です。
(水面下では既に爆発しているのでしょう)

コロナ禍と呼ばれる時代が到来し、
はや1年が経ちました。
去年の5月は「何が起こっているか分からない」まま自宅でひっそり過ごしていました。
まぁ、料理したりハンガーラック作ったりと楽しんで過ごしてはいましたが。

来年のGWには旅行にも行けるだろうとあの時は思っていましたが、天気が悪かったこともあり寝正月のようなもやもやした5日間を過ごしました。

この時代でよく聞くようになった
「不要不急」という言葉。
少し前からこの言葉について色々考えています。

私が関わる現場の中でも、
「僕たちがやっていることは決して不要不急ではない」と熱く奮い起こす人がいたり、
「この状況下で果たして公演を実施するのはいかがなのか」と疑問を呈する人がいたり、
狭間で悩んだりと様々な意見が見られます。

意見がわかれることは当たり前だと思います。
私たちは仕事として演劇をやってきたわけだし、
そのお金でご飯を食べています。
自分の仕事が「不要不急」な訳がありません。
生きるために「必要」です。

しかし、このコロナ禍は落ち着くどころか
何度も危機を迎える一方です。
あちこちで医療が逼迫し、3度目の緊急事態宣言、
宣言の延長を迎えました。
明らかに「人の命に関わる事態」です。
そんななかで上演が果たして必要かという気持ちもわからなくはありません。

私の意見は、演劇を始め芸術は不要不急ではない。仕事として生活を維持するために必要なものだ
という意見です。
演劇がどうとか芸術がどうとかではなく、
公務員や、飲食店の店員、工場の作業員と変わらず、それでお金を貰って生活しているのです。
仕事が無くなれば私たちは死ぬだけです。

意見の2分化は正直あまり気にしていません。
私も感染したくはないし、自分の関わる公演がクラスターになったりするのも嫌です。
上記の2択は共存しえます。どちらも「正しい」と思えるから、悩むところです。

1番問題に思うのは、その意見が自分の合わなかったり、相手の意見を知ることで、「演劇に対する想い入れ度」を図られてしまうことです。

「私はこんなに精一杯実施に向けて頑張っているのに、あの人はやらなくていいって言う」とか、
「一緒に頑張ってきたはずなのに、そんなことを思っていたなんて」とか、
失望や裏切りを感じてしまうことがあると思うのです。

そう考えてふと、演劇や「不要不急」ということに対するだけではないかもしれないと思いました。
マスクエチケットだとか、外出自粛ムーブだとか、
日本人が好む同調意識、KY「空気読めよ(読めない)」という感覚がとても過敏になってしまった。
そんなような気がします。
それがとても心苦しいです。

先日、所用あって河原町三条を歩いていたのですが、カラオケ店の入口に大きなポスターが貼ってありました。黒地に白い文字で、

「今は、ガマン!」

戦時中のあれを思い出しました。
「欲しがりません、勝つまでは。」

その時ふと足を止めてしまったのですが、多分私はあのポスターを見て怒りが湧いたのだと思います。
あのポスターを貼った店員さんたちは、どんな気持ちだったんだ。
というか、私たちはもう1年も我慢を続けてきたんだぞ。いつになったら「勝ち」が見えるんだ。
いつまで頑張ればいいんだ。

世の中もなんだか諦観しているように思うは、
私だけでしょうか。
とても寂しい世界だと思います。

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり

沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす

おごれる人も久しからず
唯春の夜の夢の如し

たけき者も遂にはほろびぬ
偏に風の前の塵に同じ

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