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比較考量

滝川沙希です。
勉強は「何かが犠牲になる」という私見をお伝えします。

法学の比較衡量

法学の勉強をしていると比較考量がでてきます。とりわけ、民事系で。

比較衡量は、平たく言うと一方当事者の肩を持ち、他方当事者を泣かせてしまうという判断ですね。これが立法の段階で行われることもありますし、解釈の面で行われる場合もあります。通常勉強するのは後者の解釈の面での比較衡量です。

たとえば憲法では、公共の福祉VS個人の権利となっており、どちらを優先させるかあらゆる面で誰かと誰かが問題になっていますね。
また、民法では、「正当な理由」の立証責任をどちらに振り分けるかという形ででてきますね。

ところで、この比較考量。私生活すべてが、これで彩られています。
つまり、ダラダラ過ごす甘美な時間を送るのか、それとも民法で錯誤を勉強するのか。・・・おいまた、滝川の説教が始まったよ。

失う

違うんです。それだけでないんです。勉強をすることで、何かを捨てている可能性もあります。それは、バイトの時間だったり、友人と会話する時間。海外旅行に行く時間。親と話す時間・・・。いくらでもあげられます。
これらは私が勉強の副作用として挙げられるいくつかの例に過ぎません。

大学受験までは、受験一色となることについて、家庭も、社会もおそらく、肯定的だったのではないでしょうか。しかし、受験が終わったのに、勉強し続けるというのは、ある意味、異常なのかもしれません。

どういうことかといえば、皆さんのご両親の世代までは、大学に行けば遊んで過ごせるという「神話」があったので、逆に、勉強する方が少数派だったわけです。出席なんてとるはずもありませんでしたし、昔は。
そこで、出席が取られるので大学に行くといっても押し問答にしかなりません。しかし今は出席をとるのが普通でしょう。そのうえ、内容の出来不出来まで厳格に評価されます。

勉強する学生としない学生は、はっきりと区別されています。

勉強しない学生を先に話しておくと、「いつの間にか社会から消えます」。怖い言い方ですが、勉強を続けるあなたからは認識されなくなるのです。この話は、本当につらく、寂しいので、ここまでにしておきます。

他方、勉強ばっかりしている皆さんも、良いことばかりではありません。たとえば友人さえできにくいことを覚悟する必要があります。ゼミで上手くいけばよいですが、失敗すると4年間の総決算が気まずいゼミ旅行になったりします。

こうした学生は、コンビニで日用品を購入し、定食屋や学食で食事をし、あとは部屋で勉強するという生活を送り、それを誰とも会話をしないで4日ほど行いますと声が出ずらくなる経験をしたりしていますが、それも振り返れば面白い経験ということになります(個人の感想です)。頭の中が文字や数式だけになり、世界が音(おしゃべり)でも、構成されることが分からなくなるのです。

私は幸い、そういうお勉強キャラを通せましたが、友人にも恵まれました。楽しい旅行は一生の思い出です。

でも、一歩間違えば、大失敗だったことは分かっています。皆様にはそうしたことがないように、人間関係にも資源を配分していただきたいです。

まとめ

数日ほど発声しないと、会話ができづらくなります。

できればサポートお願いします。法律学の勉強の苦痛から少しでも皆様が解放されるように活動しています! 新規六法の購入費用に充てていきます(笑)