JTNCとパクリの話を「お気持ち」の観点から語ってみる

Jazz The New Chapter(以下JTNC)というシンコーミュージックから出ているムックのシリーズがありまして、その本の表紙デザインをパクったソーシャルゲームのCDが出たという事で、それに対して異議がにわかにTwitterで上がりました。

「本人」というのはこのシリーズを監修している柳樂光隆さんのことですが、この後、彼はTwitterでこの事に関して主に剽窃論の観点から問題点を指摘しています。でも、ROOTSYさん(元ナタリー・唐木元さん)はこういう風に書いておりまして。

この「剽窃論」では無いところの「お気持ちヤクザ」の心情がなかなか理解されて無いように見受けたので、それをツイートの当事者ですらない私が書いてみるというのが本稿の試みです。

その前に剽窃論として何が悪いのかを簡単に説明してみる

まず前提として、現在進行形のシリーズとして展開しているムックを、統一したデザインにする事で、認知度を図ろうという販売戦略があるわけです。紹介しているアーティストの作品をオムニバスにしたCDも同じデザインを踏襲しているわけで、そこに全然関係ない他社が商業企画として展開するCDにパクったデザインを使うのは、商品を混同させるようなものです。下がそのオムニバスCDですが、どうですか? 件のソーシャルゲームCDも同じシリーズに見えてきませんか?

グッチやティファニーのデザインをパクったら、問題になるのは誰でもわかるでしょう。商品を統一したデザインにして認知性を高めてブランド力の向上を計るというのは、色々な会社がやっている事で、そこに意図的(後述)に似たデザインをするというのは、ブランドにフリーライドする事に他なりません。他社が時間とお金をかけてやってきた事に無断で便乗するのは、訴訟になってもおかしくないレベルの話です。

さらにのちに判明したのが、よくわからない人が意識低くてデザイン真似したというレベルの話ではなく、現役のクラブジャズDJでもあるデザイナーで柳樂さんも面識がある人が、このCDのデザインを担当したという事。これには流石に呆れるばかりです。自分も編集として、これをデザイナーにやらせたら編集としての能力を疑われるだろう、デザイナーも自分のレベルを疑われる事はやりたくないだろう、と想像が容易につくわけです(東京オリンピックのロゴ騒動を思い出してください)。好意的に推察するなら、運営会社はデザイナーがJTNCに似せてることに気づいていなかった可能性はあるかもしれませんが…

というのが、おそらく誰もが理解できて納得しやすい、なぜこのパクリがダメなのかという話。

そもそもJTNCとはどういう本か

「お気持ち」論でこのパクリの問題点を語るためには、まずこの本がどういうシリーズなのかということを説明しておかなくてはならないでしょう。

Jazz The New Chapterというシリーズで紹介しているのは、現在進行形のJazzシーン、それも旧来のジャズというイメージから逸脱し始めた音楽家のムーブメントです。その中にはクラブミュージックやヒップホップ、ブラジル音楽やノイズミュージックみたいなものも含まれます。あまりに多様なので、人によっては「これはジャズではない」などと言われるかもしれない音楽までを含みます。このムーブメントにはわかりやすい名前がまだないため、JTNC系とかそういう言い方をされるのも聞いたことがあります。実際、同じ枠で語れるのかという部分もあります。

どういうミュージシャンが紹介されているかというと、グラミー賞アーティストのジェイコブ・コリアーは割と知られていると私は思っていますが、ロバート・グラスパー、カマシ・ワシントン、スナーキー・パピー、ハイエイタス・カイヨーテ、マリア・シュナイダー、などなど。知っている人にはビッグネームですが、洋楽があまり聞かれなくなった日本では一般の知名度はそれほどでもないんじゃないかと私は思っています(ちなみに日本人も複数、紹介されています)。そもそもジャズ自体がもはや日本ではマイナージャンルといっても過言ではない状況があります。

この本がユニークなのは、旧来のジャズ批評家たちがうまく言語化できずにいるアーティストを批評の俎上にあげようという点です。例えば、ロバート・グラスパーのようなアーティストは、旧来のジャズファンには戸惑いを覚えさせる存在でしょう。何しろ曲によってはアドリブもなければ、ただのR&Bにしか聞こえなかったりするのですから。

また、ジャズ評論がある年代以降のジャズをきちんと評論できなくなっているという背景も、この本の価値を上げています。ジャズのおすすめ盤ガイドやジャズ史みたいな本を見ると、80年代以降のジャズに関しての記述が極端に少ないことに気づくでしょう。皆の想像するジャズが未だ5〜60年代の歴史的名盤に偏る中で、80年代以降のジャズの流れを追って批評の空白を埋めることで、現在のシーンの先行きを占おうという試みは、類書の少ないこともあって貴重なものです。

そういうわけで、批評としても音盤紹介としてもアーティスト紹介としても、先駆的な試みをしているわけですが、昨今の不況もあって台所事情はだいぶ厳しいんじゃないかと思っています。責任編集の柳樂さん自身が書店営業をやっているらしいツイートがあったぐらいですので。そんな中で見た目だけ「リスペクト」したCDを出されるのが、商業的にダメージとなることは想像しやすいのではないかと思います。

それではお気持ち的に何故ダメか?

お気持ち的な話について、少しは上に書いたJTNCの説明でわかってくれたんじゃないかなと思うんですがどうでしょうか。以上のように、商業的にも批評的にも挑戦的なことをやっているわけです。紹介しているミュージシャンの試みが挑戦的であるように。そこに表層だけ似せて「リスペクト」と言われても、それは本当にリスペクトなんでしょうか。仮に内実が伴っていたらOKとなるんでしょうか?

件のCDはソーシャルゲームのスピンアウト企画だそうで、ゲームのファンが興味を持ってくれる可能性もあるからこれはマイナスではないのでは?という声が返ってきそうですし、実際そういう声も目にしました。でも、同人誌やらの世界でも見ていたらわかるでしょう? 同人OKかどうかなんて真似する方がどうこういう話じゃないでしょう。作者がNOといえばそれに文句をつける同人作家がいるでしょうか? 作者が、これは自分にとって大事なものだから同人化しないでほしい、そういうのがあっても文句を言う筋のものじゃないはず。ましてや商業ベースでそれをやるのかという(同人は儲けすぎないという暗黙の了解/建前があります)。

ムックは雑誌の扱いですが、不定期刊行のJTNCは書籍ほど1つのテーマに絞りきったものではないけれど、雑誌よりはまとまった企画で統一されたものになっています。その企画で読者に見せたいもの、ブランディングしたいものというのは、何を載せて何を載せないのかの選定で成り立つものです。そこに関係ないものが関係ある顔をして無断で乗っかってきて、たとえ関係性が見いだせるからリスペクトだと言ったとしても、その行為自体がリスペクトとは程遠いものでしょう。「これはリスペクトでは」という論が意味をなしていないのはこの点です。

私が自分が念入りに作った企画をパクられたり真似されたら(残念ながら出版業界ではあるあるですし、体験済みです)、気分を害するし、自分の企画よりもしょうもないものになっていたら、唾を吐きかけてやりたくなります。それは当事者にしかわからないものかもしれませんが、しかし決してお金や結果だけで語れない、まさに気持ちの問題なのです。

でも、そういう気持ちに寄り添うことが本来のリスペクトでしょう?


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