アルフェラッツと生きる意味

NOTE アルフェラッツと生きる意味

今、自分の気持ちを書き出さずにはいられない。
暇なら読んでほしい。
私の気持ちを。

自分は、何不自由なく生きてきたと思う。良い両親の元に生まれて、良い教育と受けて、良く育ったと思う。
父も父として優秀であるし、母も母として優秀である。
祖母も祖父も、お互いの息子娘の長男であるとして私を思う存分甘やかしたと思う。
欲しいものは常識の範疇を超えない程度に買ってもらえた。ゲームにも理解のある家庭だった。たまにやりすぎて怒られたがこれは明らかに私に非があると思うことであった。
良いものをたくさん食べ、たくさんのことを知り、たくさんのものを見に行った。知識も多分一般的な家庭よりよっぽどつけた。
受験勉強をそこそこして、それなりに良い高校に入ったと思う。
両親も祖父母も大変喜んでくれたと思う。
また、並行してカーリングというスポーツもやっていた。それなりに上手かったと思う。全国3位が最高成績だ。あまり誇りたくもないが。
高校は良い高校に入ったが、大学はそうはいかなかった。私には受験勉強をしたいという気持ちは湧かなかった。どうしても勉強したくなかった。同期で就職する人たちのことをとても羨んだように思う。
そうして、同期が東大やら阪大やら北大やら医学部やら目指す最中、全てを羨みながら堕落して受けた私立大学に入学した。今思えば、これはこの先の人生においても最大の間違いであったと思う。
滑り止めのような堕落した大学の新歓祭に行き、私は目を輝かせた。
新歓祭に、馬がいたからだ。
どうやらこの大学は馬術部が盛んであるらしい。
私はウマ娘のファンだった。アニメ一期よりその跡を追っている。その自分が熱を持っているコンテンツに少しでも近づけるという気持ちを持って、私は馬術部に入部した。
最初は朝4:00に起きて5:30に集合する生活は苦しかった。だが、次第に苦しくなくなっていった。
私に愛馬というべき存在ができた。名をアルフェラッツと言う。なんらかの星座のα星の名前であるらしい。詳しいことは忘れた。
生まれて初めて馬に乗ったのがアルフェラッツであった。彼の乗り心地は非常に良かった。他のどんな馬に乗っても彼以外あり得ないと思っていた。自分に馬に乗る楽しさを教えてくれた馬だった。次第に、馬術部の先輩やOBも私がアルフェラッツに乗る姿を見て「こいつ、馬術未経験者なのにやるな」という目をし始めた。自分も日々上手くなっていく自分が楽しかった。だから、5時半に集合する最悪な健康生活もなんら苦ではなかった。全ては楽しかったからだ。
馬術部に入っていろんなことを経験したと思う。知っているだろうか?漫画「ぐらんぶる」を。うちの馬術部は海に入らないぐらんぶるであった。週末になれば週にたった一日の休日をあてにして酒を飲んだ。部室に入り浸り、頭痛がするほどゲームをした。他人の課題を助けたり、助けてもらったりもした。
良い生活だったと思う。
そんな馬術部にも仕事はある。私は会計という職に割り当てられた。もちろんやったことなぞない。
会計は3回生二人、2回生一人、1回生二人で構成されていた。
ここでお気づきだと思うが4回生がいない。これは前会計長である4回生が飛んだと見るのが妥当だ。そしてその下の3回生のうちの一人は全く仕事をしていないし、仕事ができないようであった。もう片方は商業高校出身で会計の仕事をほぼ一人で切り盛りしていた。
そんなすでに破綻状態のワンマンカス会計部署に私は入れられることとなった。
私はその商業高校出身の会計長の後釜として育てられた。もう片方が選ばれなかった理由は単純に脳みそが足りないことが要因と思われる。多分中学生の問題も解けない。
私はなんとか教えられることを覚えが悪いながらも覚え、仕事をしていった。それなりにできるようになったと思う。今もなんとかそれが活きている。
そして、遊びながら、仕事をしながらの馬術部で初めて大会に出た。鞍下はもちろんアルフェラッツであった。
元来の馬術競技から比べればおままごとのような競技に出たが、2位を取ることができた。ちょっと嬉しかった。
愛馬と賞を取ることはこんなにも嬉しいことなのかと思った。2位で少し悔しいなと思うこともあった。
もちろん大会に出るのは自分だけではない。先輩方も出る。先輩の付き添いや馬の付き添いの仕事も一生懸命にやったし、それがきちんと評価されたような気もする。
それから、自分はあるコーチに気に入られた。土日にしか来ないが、他の横暴なジジイと比べ、別格に指導が分かりやすかった。そのコーチにヘヴンリィという24歳の馬に乗せてもらった。
馬場馬術というものをするためだ。障害を飛ぶ方ではなく、フィギュアスケートのような馬をいかに美しく動かすかという競技である。
たくさん練習して、たくさん辛い思いもしたが、とっても上達したし、これまた成長する自分を大いに楽しんだことと思う。
それからまた数ヶ月したあと、うちの大学の馬術部は全国学生馬術大会に出た。私は付き添い人だったが、アルフェラッツの付き添いでもあったのでこれも苦ではなかったし、先輩がアルフェラッツで障害を飛ぶ姿を応援したい。
が、その大会で足を悪くしたのか、いや、もとより脚部はガタガタであったのだが、アルフェラッツは足を悪くした。
しばらく運動もできない彼を可哀想に思った。彼を手入れする担当である先輩も悲しんでいた。
しかし、そこまで悲観することはなかった。予後不良ではない。人間でいうちょっとした捻挫なのだ。治る。
治るまでの間、私が先輩からアルフェラッツの担当を任されることになった。
私はとても喜んだと思う。夢にまで見た彼の担当だ。他人から見れば怪我をして運動もできない不便な馬を押し付けられた可哀想なやつだと思われたかもしれないが私は全くそんなことはなかった。毎日曳き馬もした。毎日足の治療もした。ようやく運動できるようになってから、自分が成長するための他の馬に乗ることも拒んでアルフェラッツに乗ってリハビリを行っていた。
だんだん良くなっている感覚があった。彼の回復力は尋常ではない。私は日々良くなっていくその脚と、自分がアルフェラッツに毎日乗れているというこの上ない幸せを噛み締めて、その冬を過ごした。
春が来て、私も2回生になって、アルフェラッツが退厩するという話が持ち上がった。足が良くなっても前のようには運動できないだろうということだった。いつかはわからないが、今年中だということだった。
私はそれを聞いた時、人生で三番目に悲しんだと思う。
それから、残された、いつかわからない最後の日に怯えながら毎日アルフェラッツを愛した。
そして、最後の日がやってきた。アルフェラッツが退厩する日が決まった。もう運動もできるのに。障害も無理をさせすぎなければ飛べるのに。どうしてアルフェラッツが。そんな気持ちでいっぱいだった。退厩の日、自分は人生で一番長い時間馬に触れていたと思う。最後の最後まで触れていたと思う。
遠いどこかに行く馬運車が追えなくなるところまで自分の足で追い、精一杯手を振ったと思う。
それから自分の厩舎に戻ってきて、彼のいない馬房にうずくまった。
何物にも変えられない喪失感が私の全身を襲った。確かに地に足ついているのに、宙に浮いているような感覚であった。人生で一番悲しかった。
あとついでに彼女にも振られた。遠距離恋愛で小学生からの幼馴染だったが振られた。これも人生で一番悲しかった。
こうしてあっけなく私は心の半分ずつを割いていた存在を一気に失った。
もう私には何にも残っていなかった。
私を気に入っていたコーチは変わらず土日に私をヘヴンリィに乗せ続けた。私はどんどん上手くなっていったと思う。アルフェラッツに乗らなくなったからだろう。皮肉なことだ。
その頃から障害も飛び始めて、アルフェラッツがいなくなって3ヶ月後、私は大会に出て馬場で3位、障害で1位を取った。新人戦のようなものだったが。
嬉しいことには嬉しかった。どちらもトロフィーがもらえる着なのだから、嬉しかった。
だが手にした大きめのトロフィーを見つめても最上の喜びではなかった。彼がいなければ、こんなものはアルミかなんらかの合金とメッキの塊でしかない。賞状も紙屑以下である。
そして自分の大会を終えた後、今度は二度目の全学がやってきた。私はまた付き添い人であった。
ヘブンリィはその大会で主将を乗せていた。私は主将に結構気に入られていた。来年はお前がこれに乗るんだと言って平日も時々ヘヴンリィに乗せられるので一週間丸々ヘヴンリィしか乗ってなかったこともあるくらいだ。
そんなヘヴンリィはなかなか大会では結果を振るえなかった。体調が悪かった。
大会が終わって、さあ自分の厩舎に帰ろうとなった日、ヘヴンリィに異変が起きた。体調を急変に崩し、疝痛を起こしているようだった。
24歳の老体を気遣いながらなんとか厩舎に戻して必死の看病が始まった、私も乗せてもらっていた馬だ。コーチと主将と、繋がりを持ってくれた馬だ。必死に介護した。
だが、人間に換算しておよそ100歳近い馬体がその病気を乗り越えることはなかった。
ヘヴンリィは死んだ。何もしなくても二、三年の間には死んだだろう。だがどう考えても老体に鞭打ち、大会に出したことが響いたことは明白であった。
そして、ヘヴンリィが死んで、その死体を見送った後、本当の本当に、私には何も残らなくなってしまった。
懇意にされて乗せてもらっていた馬もいなくなった。元からいた愛馬はどこかへと消えた。
5:30に集合するのが辛くなってきた。毎日がまるで楽しくない。
思えばここらあたりで、自分の心が急速に死んでいく感覚を覚えた。
何を見ても感動しない、心が動かない、頑張ろうとも思えない。何もかもにやる気が持てない。将来に希望も持てなかった。
高校生の頃は、向こうに続く線路を見るだけで心躍った。霧がかかる森と山を見て心が躍った。雪が降り、庭が白銀に包まれて何も音がしない空間に心を打った。
今はとてもそうはならなかった。吸って肺に入れる全ての空気が澱んでいるように思える。食欲もこれきり失せたと思うし、本当に楽しくない。
また、新体制になり、私は会計長になった。まるで会計がわからない私が、だ。そして引き継いで仕事をし始めて思った。
会計とは、人柱だ。
部活で動く全てのお金の責任を取らなければならない。誰もその責任を負いたくないが故に会計が負うのだ。そして仕事が多い。多い上に分担ができない。分担をすれば必ずミスが発生する。ワンマンの方が効率がマシであるという事態だった。前会計長が忙しそうにしていた理由もわかる。前々会計長が飛んだ理由もわかる。
この職業は、まさしく人柱である。
次第に、この部活に四年間いるだけで何になるのだろうと考え始めた。
ただ部活に四年間いるだけの存在と、私の友達のように優秀な大学に入り、資格を得た人間たち、どちらの方が社会において優秀で必須で、生きていきやすいだろうか。

ちょっと自分が何を言いたいかわからなくなってきた。話を変えよう。
最近、タバコを吸っている人間やパチンコをやってる人間がどうしてそれをやっているのか考えたことがある。パチンコは私もやったことがある。あほほど勝ち、後、タコ負けしたのでやめた。
どうしてそんなものをやるのか。やらないと今が楽しくないからじゃないだろうか。将来に明るい希望が持てない。今も楽しくない。となればお金を使って今を楽しくしないと今を生きていられないから、パチンコやタバコはあるし、それをやってやまない人がいるのではないだろうか。
私はまさしく今それにあたる。どちらもやってはいないが。

私はどうしたらいいのだろう。最近、ヴァイオレットエヴァーガーデンを見た。心洗われる体験であったが、すぐにそれはどこかへ行ってしまった。まるで、小説「檸檬」の一節のようなそれである。
私には生きる目標がない。死にたいと思わないが、少なくとも生きていたいと思えない。心を燃やす何かが、私には必要なのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?