主観的おもしろ人生は多分自殺すること

あんなにも毎週iPadを開いては自身の中にあるカオスをキーボードにぶん投げて、排泄物を世に公開していたというのに、どうやらおれは半年以上もnoteを書いていなかったらしい。お久しぶりです。

本当はずっと何かを書きたいと思っていて、だけれども思考を深く巡らせすぎて身体を動かせなくなっていた日々の経験知識と、文字通り社会人となった現実に忙殺されていた。かといって今暇なわけではなく、某ウィルス禍の恩恵によって成人式以降の800日の夏休みを得た時のおれとは全くを以って対照的な生活をしているのである。あの頃は日にちとイベントが淡々と進んでいくのに、自身の環境は回っていかず、身体だけが完全に置いていかれたような気分が、していた。それ故に時々無理矢理寝返りついでにベッドから転げ落ち、その自己の身体への尊心の無さから突然誰にも告げずに遠くに行って、帰ってこなくなるみたいなことがあったのだが、今となってはそんな日々が恨めしくも羨ましくもあるほどに、今度は環境変化に思考が追いつかなくなって、今度は考えることを完全に放棄してしまっている。頼むから君たちはちゃんと二人三脚してくれ。

だからこそこうやって資格試験の勉強をするために久しぶりに開いたiPadで、過去問サイトよりも先にnoteを開いて無理くり書くこともないことを書いているのだった。

村田沙耶香氏の『コンビニ人間』を始めとした、いくつかの作品を読んだ。いやあの非常に平坦な言葉で表すなら社会不適合な人間の思考回路には全くもって当てはまらないのだが、しかし度々出てくる「社会の歯車」という概念には大変な興味が注がれる。社会にとっての当たり前に対して純に疑問を抱き続けている主人公が多くの作品で見られるのだが、まさに自身が歯車的人間になりつつあるのを感じている自分がまだ別にいる。私の現在の人生というのはおそらく社会的客観的に見ると、おそらく順調である。大学でどんな過ごし方考え方をしていたかは置いといて、外見だけ見たら、浪人せず、そこそこの大学をほぼフル単のストレートで卒業、上場企業に就職し、一人暮らしをしながら彼女と半同棲をしている。ああなんて順風満帆なのだ。こうやって人生のテンプレートのようなレールに戻ってきたからこそ、自身の思考がどんどん放棄されていくのを感じる。4年間書いていた日記を最近めっきり書かなくなったのはそのせいかもしれない。こうして多少の紆余曲折あれど、普通に出世して、結婚して、子供を産んで、死んでいくのかもしれない。そのレールに乗ろうとしているが、本当にそれでいいのかと、大学生の時に己の総てを支配していた、でかすぎる思考体が言っている。その各駅停車でいいのか。おそらく、いや全くおそらくではなく、これはとんでもないほど贅沢な悩みなのである。おれの考える普通の人生を喉から手が出るほど渇望している人間がごまんといる。し、間違いなく俺もその1人であることは間違いがない。だが、ご存じのとおりおれは普通に病気なので、自分がもう1人いて、それらしくかっこいい名前を付けるならメタ認知というやつだが、俺に対して完全に天邪鬼をしてくるおれがいる。
こうやって、迷いながら結局は置きにいってしまうところが本当に「凡」なんだろうなとも思う。マジでキモいことを言うと、社会の想定する普通の幸せを手にしていく自分が、結構悲しい。noteだけはそんな自分に対するアンチテーゼを掲げていきたいとも思うけど、もう完全に各駅停車に乗り込んでしまったら、それはもう最終列車なのでnoteに戻ってくることもないのだろうなとも思う。これが大人になるということなのか、みなが全員同じ道を通っているのかは、果たしてわからないが、まだ微妙とは言えないほど無視できない大きさの、それを阻みたい自分が存在していることは心に留めておきたいし、きっと悪いことではないと思うのだ。タイトルに続く

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