認知の歪みと自己防衛について 他

日曜日の15時です。まだ6月だというのに、梅雨は明けていないのに太陽はかんかんと照っていて、クーラーをフル稼働させた部屋でポケモンのぬいぐるみに囲まれながら、彼女にお薦めされた本を読んでいたら、なんだか今日はnoteが書けそうだなあと思い数ヶ月ぶりにiPadを起動致しました。まるで唯一終わっていない夏休みの宿題のやる気がようやっと出た日みたいな気分なのですが、確実にその頃と違うのは、自分がもう学生ではないことと、読書感想文を書くのすら今では楽しくて仕方ないこと、でも楽しいことにすら腰が上がりづらくなってきていること、です。

ただ書きたいことはたくさんたくさんあるとはいえ、それは各々を一つ一つの記事にまとめるほど整然とされておらず、まだまだぐちゃぐちゃなので、もうそれを全部そのまま出してしまおうと思いたったところです。今日もごちゃごちゃです。ではまず、文がごちゃごちゃだという話から始めたいと思います。

文体と、救いについて

多分、以前似たタイトルでnoteを書いた。もしかしたら一言一句同じことを書いているかもしれないがこの悩み、というか所感は私の心に居座り続けているのでまた書こうと思う。

このアカウントの初期の文章を見てみると、笑ってしまうくらい過剰に読み手を意識したものが見れる。誰かを絶対に傷つけないように、ストレートな物言いは避け、婉曲的ながらも、やんわり自己主張を挟んだ、お前は何に怯えているんだと突っ込みたくなるような文章が見れる。ただこの時期に書いた文章が何本かTwitterでも微バズしたのも事実であり、今でもたまに購入されたりしているし、それは私が仕事終わりにスーパーの100円メンチカツを買うお金になっている。

あのような書き方が人々に広く受けやすいということはなんとなくわかった。というかそれを理解しているからああやって書いて、何度も推敲して、Twitterに投稿する時間は調整して、ということをやっていたのだろう。おかげで嬉しいコメントやDMが時々届いたりすることがあったし、そこからSNSが緩くつながって電話したり、知らん人だからこそちょっと本気の相談とか魂の会話をぶつけ合ったりできたこともあった。

ただ事実として、いやおそらく私の主観として、あのような文体のものはもう書けないと思う。なぜかと言うには当時の自分の状況を説明しなければいけないのだが、長くなりそうなので要約すると、当時は「人を救う(救った気になる)ことで自分が救われていた」のであった。だから、あなたがくれたいいねやDMに私は本当に、本当に救われていたと、今は思う。

これは5しゃいが誰かを救うことが自分のエゴに感じて辛い、と言ったことに対しての空リプで、この時も結局5しゃいを救いたいというか救った自分に救われたい気持ちを含んだ、逆説的で無知なツイートだったのだ。当時は全く気づかなかったが、「言われた時はわかったつもりになっていたけど後から同じ状況になってやっとその真意に気付くこと」が多くて、悲しくなってしまうなあ。私、つかおれの場合は結局全部エゴだったな。

それでもおれのエゴに付き合ってくれたみんなのおかげでおれはたくさん救われて、もう誰かを救った気になることでしか心の平穏を保てなかった、ベッドから出られなかった自分からは卒業できた。メタ認知とか、人格の乖離とか、自分の行動を監視する自分とか、結局おれにとっては自己防衛でしかなかった。辛い現状を画面の中の自分に押し付けて、コントローラーを操作する本来の自分は暗い部屋で布団にくるまって絶対に傷つかないようにしていた。そこからやっと本来のおれが部屋から出て、自分の話を自分の言葉でし始めたから、昔よりも読み手の意識がない、稚拙で我儘な文章になったのだと思う。本来はこれだからね。これでもわざわざ読んでくれている君には感謝しかないのですね。

思ったよりも一つの話題が長くなってしまった、、でもやめません!ここはみんなに求められていることを書く場じゃなくて自分が思ったことを排泄する場なので!

認知の歪みと、心の防衛本能の話

(5月24日のInstagramより)
やはり無理矢理趣味を作るより、シンプルに都内のごはん開拓とかの方が楽しめるかもしれない、人生を
今日帰り昔のバ先寄ったらおばちゃん達に見つかっちゃって少しお喋りしてたんだけど、開口一番「たけちゃん元気そうで良かった!顔が明るくなった」て言われてウケちゃった、バイトの時どんだけ暗い顔してたんだ
でも実際元気なのは間違いなくて、5月と10月は丸々学校休んでたおれが毎日仕事行ってるのは奇跡のようにも感じるけども、寝起き以外はそんなに憂鬱な感じもなく、やはり悩みを消すのは没頭という若様の言葉は正しかったなと思う反面、悩みながら毎日働いてたら本格的に心身を壊すからそれを防ぐための防衛本能的な思い込みなのかなとか思ったり思わなかったりです!
昔よりも認知の歪みを感じる瞬間が増えて、「自身のそれに気付く自分」も同時に存在するから精神衛生上は良くないけど人生全体で見たらまだ軌道修正が可能だということだから歪みを歪みとして認識しているうちに治したいなと思うところです
あと心の怪我?傷?は身体みたいに外傷じゃないからわかりにくいみたいなことって当たり前だと思うんだけど、おれは自分の心の健康状態について物凄く敏感に認識できるようになった気がする  明確に重い瞬間とか胸の辺りのふわふわした感じとか、まあ最近は特にそういう場面はないけどこれは良い事なのではないだろうか、知らんけど
なんか最近は、魚系のおいしいものたくさん食べたから次は焼き肉以外の肉系行きたいな!熟成肉系、イチボのステーキとかおいてあるとこ、ついてきてください。

なんだか最近は、全ての行動はこころを守るための防衛本能に基づいているんじゃあないかなあなんて思う日があるんです。嫌なことを言ってくるあの人だって、そうして相手を卑下して想定的な上下関係があると思い込むことでしか保てない何かがあるのかもしれない。おれがメタ認知と称して魂側の好奇心の赴くままに自己投棄的に身体を壊していたのも、深夜に狂ったようにコンビニ弁当を食べていたのも、誰かを救おうとしていたのも、対人関係で自分の意見を先に言うことを過剰に怖がっていたのも、きっと、自己防衛なんだろうなあって、思う。自傷行為も自殺でさえも、自己防衛なのかもしれないし、別にそれでいいとも感じるような、でもそれを自分に適用して甘やかしたくないような、そんな感じです。

近況

社会人になり、暇な時間が圧倒的に潰れました。
曜日も日にちも、迷わず毎日言えることが当たり前になりました。
鬱々としている余裕がなくなり、少し元気になりました。社会人を始める直前に抱いていた労働に対する嫌悪感よりは、実際は少しマシなことを知りました。
でも、あのベッドで丸まり続けて何日も何日も浪費してた日々も、鶏胸肉一枚茹でてそのまま食べてた日も、無限にあった夏休みも、もう来ないのは少しだけ寂しいですね。
「しがくんの言葉の選び方って綺麗だよね」って言葉をくれた人を好きになって、彼女ができました。
彼女ができても意外と生活は変わらないもんだな、と思いました。
この人を無条件無責任に信じるか、勝手に不安をぶつけてしまうかの瀬戸際があるかを思い出し、意識的に前者を選び続けることでしかおれは救われないと直感しました。
フォローしている人の、好きなものを100個まとめている素敵すぎるnoteを読み、なんだかはっぴーな気分になりました。おれも真似していいかなあ。
おわり。また気が向いたら書くね。

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