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大河コラムについて思ふ事~『光る君へ』第23回

6月中旬になりました。真夏日の中に梅雨の気配を感じますが健やかにお過ごしでしょうか。
急に暑くなり気温や気圧の変化など、皆様健康には充分お気を付けください。
さて、光る君へ第23回。
今週も『武将ジャパン』大河ドラマコラムについて書かせていただきます。
太字が何かを見たさんの言質です。
御手隙の方に読んでいただければと思います。それでは。


・初めに

>日本語も流暢に操る周明とは何者なのか?
実は津島の生まれで宋に拾われ、医師になったとかで、朱仁聡のことを信じているが、果たして、その朱仁聡が目的としている国交とは真実なのか?
周明さんは宋の商人・朱仁聡(ヂュ・レンツォン)さんらとともに越前にやってきた宋の見習い医師です。
公式HP『君かたり』で演じている松下さんは、周明さんの人物像について『周明は対馬で生まれながら、ひとりの宋人として生きねばならない複雑な宿命を背負った青年。彼は自分の居場所や拠り所がないことに対する葛藤や苦しみをずっと抱いて、生きてきたのだと思います。日本に帰ることはできないし、けれども生粋の宋人でないことも理解しているはず。
宋で優しい医師(くすし)に出会い、なんとか生きるすべは身につけましたが、自分には故郷や帰る場所がないことを心のどこかで引きずり、それに対してコンプレックスを持っているのではないかと思いました。』と語っています。
また、朱仁聡さんについては『朱仁聡は周明を医師として迎えてくれ、面倒をみてくれる“命の恩人”のような存在です』との事です。

>「朱仁聡は殺人を犯していない」
>周明がそう言いながら証人を突き出してきました。
「朱仁聡は殺人を犯していない」ではなく「通事を殺したのは朱さまではない。」です。
『“命の恩人”のような存在』を呼び捨てにはしないと思います。
長徳2年(996年)越前。
宋人たちの通事を担っていた三国若麻呂さんが殺害され容疑者として朱さんが捕まりました。
越前守藤原為時公がまひろさんと共に左大臣藤原道長卿からの『越前の事は、越前で何とかせよ』という文を読んでいると、役人たちに追われながら周明さんが取り押さえられそうになりながらも「話があって来た」と日本語で言います。
周明さんは、「通事を殺したのは朱さまではない。自分といた日本人の男が証人だ」と為時公に訴えました。
証人として連れて来られたのは、松原客館で働く日本人の下人でした。
下人は膝をつき、「国府の偉いお人に朱さまが通事を殺したと言えと脅かされました。」と証言しました。
為時公が「国府の偉い人とは誰の事だ?」と詳しく聞こうとすると、そこへ越前介・源光雅公と越前大掾・大野国勝公がやって来て、「この様な卑しい者を招き入れるとは」とこれ以上の詮索を止めようと為時公を非難します。
そして「このお方です」と下人が指したのは光雅公でした。

『光る君へ』より

下人によれば真犯人が三国さんを殺す所を目撃し光雅公に報告したところ、「通事を殺した者は宋人の長と言え、言わねばば仕事を取り上げると言われました」と脅されていた事を話します。
「偽りを申すな!」と言う光雅公。
さらに「この様な者のいう事をお聞きになっては」と言う光雅公を為時公が制し、「お前は通事を殺した者も知っておるのか?」と尋ねます。
怯える下人に周明さんが「俺に言った事をもう一度話せ」と証言を促します。
下人は「武生の商人・早成でございます」と答えました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

・若麻呂殺人事件の真相?

>通辞の三国若麻呂に贈賄したところ、渡した賄賂が到底足りないとつっぱねらたようです。
『つっぱねらた』ではなく、『つっぱねられた』ではないでしょうか。
早成さんに事情を尋ねると、「私は殺すつもりはなく、宋と商いがしたかっただけなんです。」と顛末を話し始めます。
早成さんが「朱との貿易を独占できないか?」と通事の三国さんに砂金を渡し取り次ぎを頼んだところ、欲を出した三国さんが「砂金なら5袋。嫌ならそれまでだと」と要求します。
突っ撥ねられた早成さんは「その様な…」と愕然とします。
二人は揉み合いになり、雪で足を滑らせ倒れた拍子に庭石に後頭部をぶつけた三国さんを見て早成さんは逃げてしまったのでした。
三国さんはそのまま絶命し、庭で発見されました。
因みに朝廷が公式に行う貿易は博多津の鴻臚館に於ける貿易に限られているため、早成さんは宋との私的な貿易権利の独占を持ちかけたという事になります。

『光る君へ』より

>どこまでも救いがない事件といえます。
>あらかじめ贈収賄を禁じる法律さえ設定していれば、こんな悲劇も起きなかったことでしょう。
大宝元年(701年)成立の日本初の律法典『大宝律令』には職制律という刑法が盛り込まれます。
贈収賄罪は『汚職は役人が法を曲げる罪』という意味で『枉法罪(おうほうざい)』といわれました。
刑罰は収賄側は布一尺相当なら杖八十、布三十端反相当なら絞(死刑)とあり、杖八十は刑具の杖で背中を八十回打ち据えるというものでした。(『杖』は五刑のひとつ。太い木の棒で臀部や背を打つ罰)
賄賂を受け取りながら便宜を図らなかった場合は『不枉法臓(財を受けて法を枉げない)』と言って、最高刑は流罪となりました。

平安後期には国家財政の不足を補うため、朝廷の行事や寺社の修繕・造営など本来は政府が行うべき事業を個人の負担で担い、事業の功を成させる代わりにその負担に見合う位階(おもに五位)・官職を与える『成功(じょうこう)』という売官制度がありました。
受領の位階は四位か五位が普通で都から離れても国へは徴収分の一部だけを納めた後は莫大な富を築く事ができる人気ポストでした。
権力者の推挙により除目で叙されるため、権力者に近い人が任命されました。
融通を利かせてもらうためには『志』と称する貢ぎ物を権力者に贈ったり、『成功』を行なわなければなりませんでした。
為時公の様に誰かに根回しをしたり不正をして私腹を肥やして儲けるという考えが浮かばない人もいましたが、権利者に融通を利いてもらうための『志』や『成功』は日常的な作法になっていたのではないでしょうか。

>贈収賄を嫌う為時は、嫌そうに光雅に聞きます。
>この男と取引して、懐を肥やそうとしていたのか?
為時公は光雅公に、「そなたもこの早成と共に商いをして、懐を肥やそうとしていたのか?」と尋ねました。
光雅公は「懐を肥やす気などない。越前においでになったばかりの国守さまでは分かりませぬ」と反論しました。

>国同士で商いをして何が悪い?
>そこは考えたほうがよさそうです。
>日本史学習の欠点として、隣国である琉球や朝鮮、台湾の歴史把握が甘くなりがちだということが挙げられます。
>琉球を見ていると、朝貢貿易は悪くないとわかります。
『朝貢』は中国王朝を中心とした貿易の形態です。
皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ(進貢)、これに対して皇帝側が確かに君主であると認めて恩賜を与える(入貢)という形式を持って成立します。
中国を中心とした朝貢関係は『中国王朝が周辺の冊封を受けた国に対して恩恵を施す』という理念によって成り立っている国家間の関係でした。
唐の時代では、唐を中心とした国際秩序が出来上がり、貿易も朝貢の形態を取っていましたが、唐自体の衰退による政情不安などから寛平6年(894年)に日本の遣唐使も停止されました。

907年に唐が滅亡したのち、五代十国の時代を経て960年に趙匡胤が宋を建国し、2代太宗が979年に統一を果たし、科挙によって採用された文官を重用した『文治主義』に転換していきました。
漢民族の宋王朝は華北の一部・燕雲十六州を支配した北方系の遼(契丹)や西方の西夏の圧迫を受けていました。遼(契丹)との戦争状態が続いた事で、宋は軍事費が増大し財財政難から外貿易を奨励していました。
宋の時代は朝貢に代わり民間レベルでの交易が活発となりました。
また、宋銭が大量に鋳造されて貨幣経済となり、国際通貨として流通します。

遼・北宋・西夏
『世界史の窓』

藤原道長卿は朝廷の意向として『朝廷は越前に新たな商いの場を作る気はない(港は博多津のみ)』と言っていました。

道長卿は若狭に流れ着いた70人が全員と考えておらず、越前から都に攻め込むための足掛かり(商人を装った工作)と見ている節もあり、松原客館に留め置いた商いを望む宋人70余名に博多以外では交易には応じない事を言い含め、彼らを穏便に帰国させるのを優先してほしいと為時公に厳命していました。
国同士で商いをする事が悪いのではなく、日本の朝廷で決められた港に寄港し、公式に貿易をする資格を持った商人による商いをしてほしいと言っているのではないでしょうか。

>琉球の歴史を見ていくと、朝貢はむしろお得な制度であることが見えてきます。
琉球諸島には、約3万2千年前から人類が住んでいたことがわかっているそうです。
先史時代を経て、日本の鎌倉時代に当たる12世紀頃から一定の政治的勢力が現れはじめ、1429年尚巴志がはじめて統一権力を確立し『琉球王国』が成立します。
その後、中国をはじめ日本、朝鮮、東南アジア諸国との外交・貿易が行われました。
平安時代、琉球は先史時代であり、国家として成立していません。

・光雅には不満があった?

>日本がなぜ、一時的な例外を除いて朝貢を避けたのか?
>それはあまりに遠大な話ですが、大河を見る上では朝貢について頭の隅に入れておくと理解しやすくなることもあるかもしれません。
日本に於ける朝貢貿易以外の『一時的な例外』とはどういった事例でしょうか。
上記でも書きましたが、宋の時代は王朝自体の国際的な求心力は弱まり、朝貢に代わり民間レベルでの交易が活発になった時代です。
宋銭が国際通貨になり、宋の商人が日本・高麗などの東アジアや東南アジアに進出し商人による盛んな海外との交易が行われました。
中国東北部・満州から朝鮮半島北部を中心に建国された『渤海国』とは密接な外交交渉・交易が行われました。
727年から34回に渡り渤海使が派遣され、日本からも遣渤海使を派遣しました。
日本からは絹布・生糸などを輸出し、渤海からは毛皮(虎やテン)・蜂蜜・人参などの特産物が輸入されていました。
越前・敦賀の松原客館は平安時代前期に渤海の使節団(渤海使)を迎えるための迎賓・宿泊施設でした。
渤海国は延長6年(926年)に契丹によって滅ぼされました。

渤海/渤海国/海東の盛国

>光雅あたりが嫌がるのは、国が統制するとなると、中抜きして自分の懐に入れるうまみが薄れることもあるのでは?とも思えてきます。
松原客館での渤海国との交易があった頃は商人から献上されたり交易品を融通してもらっていたかもしれません。
渤海国は延長6年(926年)に滅亡し、光雅公や大野国勝公が地方官吏になった頃には渤海使も無くなっていたのではと思います。
越前では宋など周辺国からの私的な商船による商いになり、越前の商人が宋から唐物を仕入れ諸経費や儲けを見越した相場で都に売るのでしょう。
光雅公は都での商売に参入できれば税収が増え、経済が回り越前や都の財が潤うのではと考えているのではないでしょうか。

>光雅はさらに私怨を言い募ります
宋の商人だけに好き勝手に商いをさせるのではなく日本や越前の商人を間に挟み双方の利益を優先できる様にしたいと考える光雅公のどこが私怨でしょうか。
光雅公は「そもそも宋人は日本を格下に見ており、莫大な財産を出し渋りながら物欲のある公卿を煽り朝廷すら操ろうとしております。越前の商人が宋から財宝を仕入れて都に売るなら、商人は利を得て国府は租税で潤い、 都は財宝を手に入れるので三方よしとなる。朝廷と宋が直接商いをすれば、したたかな宋の思いのままにされてしまうだろう」と訴えます。
また、「宋人は日本を格下に見て、我々の事など取るに足らぬ国の田舎役人と侮っており、松原客館ではやりたい放題でございました」と言いました。
為時公は『やりたい放題』の言葉に引っかかっています。
光雅公は、「国守さまが都から来たため宋人たちは態度を変えました。偽りの証言を頼んだのは、この機会に仁聡の力を奪わなければ強かな宋に越前はもちろん、朝廷までもが害を被ると思ったからです」と語りました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>宋人は我々を格下に見ていて、小役人と侮ってやりたい放題だとか――
>ここは彼が勝手にそう思い込んでいるのではない、具体性のある暴虐の証拠も知りたいですね。
作中では具体的な宋人達の暴虐ややりたい放題振りは描かれていない様に見えます。
22回コラムでも書きましたが、作中では朱仁聡さんに殺人容疑がかかりました。(結果冤罪でしたが)
史料でも朝廷で朱さんの罪名を検討している記述があります。
『日本紀略』長徳二年十月六日条によれば、『大宋国商客』として朱さんを陣定で審議しており、また長徳二年十一月八日条によれば、明法家に対して『大宋国商客』の罪名を勘申(調査・答申)する事を命じて、明法博士・令宗允正(よしむねのただまさ)公が勘申した記述があります。(罪名は不明)
長徳三年十月二十八日には『若狭守源兼隆(澄)が「大宋国商人(客)」朱仁聡らに陵轢(侮り踏みにじる事)された』という記述があります。(『小右記』・『小記目録』、『百練抄』十一十月日条)
十一月十一日には、明法家に若狭守を陵轢した朱さんの罪名を勘申させています(『百練抄』)
これらの罪状と陣定など公卿側の動きなどを参照に作中の通詞殺害事件は作られたのではないでしょうか。

『小右記』長徳三年十月二十八日条
『小記目録』長徳三年十月二十八日条

>ともかく、そんな宋人を相手にして、新たにやってきた国司の藤原為時は扱いが優しく、「これではいかん……」ということから朱を貶めるため、罪を着せたと言い出します。
光雅公は、態度を変えた宋人達について、『藤原為時公が扱いが優しいため』ではなく『国守さまが都から来たため』態度を変えたと言っています。
宋と日本の国家間の商いを図りたい宋人達は都から来た国守を殊更丁重に扱ったのでしょう。
下人に偽りの証言をする様命じたのは、『朱を貶めるため』ではなく、『仁聡の力を奪わなければ強かな宋に越前はもちろん、朝廷までもが害を被ると思った』と言っています。
朝廷までもが宋人に振り回され大変な事になる前に朱さんの力を削ぎたかったんですね。
しかし、対応を誤れば国と国との問題に発展するところでした。

>「そんな話はいい。朱様は無実です。早く御解き放ちを」
>キッパリとそう主張する周明。 
近くで光雅公の話を聞いていた周明さんは、「そんな話はいい。」と言い、光雅公は気色ばんで立ち上がりました。
しかし周明さんは「朱様は無実です。早く御解き放ちを」と為時公に頼みます。
光雅公は不満そうに周明さんを睨みますが、為時公は光雅公に「その方の言い分は分かったがこの件で仁聡に罪はない」と言い、解き放つ様命じました。
また為時公は「左大臣さま(道長卿)も越前の事は越前と決めよと仰せになった」と言い、「光雅達の意見は改めて聞く」事を伝えました。
また、周明さんに「通事として力を貸せ」と言い、周明さんは拱手し為時公の命を引き受けました。

・朱仁聡の目的とは??

>周明に連れられ、朱仁聡がやってきます。
周明さんに執務室に連れて来られた朱仁聡さんは、為時公に礼を述べます。
朱さんは執務室に足を踏み入れ、「貴方を信じて真実を話す」と前置きし、「私達は越前を足掛かりにして宋と日本の商いの道を図る様に命じられており、それを果たさなければ国には戻れない」と言いました。
そして「前国守は話も聞いてくれなかった。貴方は話を聞いてくれる」と言ったため、「いや、まだ聞くとは言っていない」と為時公は答えます。
しかし朱さんは「力を貸してください。貴方が頼りだ」と懇願する様に述べました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>いったい為時はどうするのか。
この場合受け取る側は成立しないため『賄賂も利きません』で良いと思います。

>為時は、越前介である源光雅にそのことを話しました。
為時公は光雅公にこの事を話しました。
光雅公は納得した様に「やはりそうでしたか、宋の朝廷の命を受けたのでしょう」と言います。
為時は「越前や朝廷を思う気持ちも分かったが」と光雅公の気持ちを慮ったうえで「無実の宋人を罪に貶めた事は許される事ではない。筋を通さなければ宋人に立ち向かえぬ故」と言います。
そして光雅に「年内は国府に上がらず謹慎せよ」と命じました。
光雅公は「承知仕りました」と言います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

・あなたは宋人? それとも日本人??

>まひろは周明に、宋人なのか、日本人なのかと問いかけます。
まひろさんは周明さんに、「貴方は宋人なの?日本人なの?」と尋ねていました。
「俺は宋人だ」と答える周明さん。
まひろさんは「ならばなぜ日本語が上手なの?」と訊きます。
周明さんは「生まれは対馬だ」と答えました。
まひろさんは「日本人じゃないの!」とまた尋ね、周明さんは「いや宋人だ」と断言します。
周明は「12歳の時に父に口減らしのために海に捨てられた。そして宋の船に拾われた…。牛や馬並みにこき使われた。ここにいては死ぬだけと逃げ出し、薬師の家に転がり込んで見習いにして貰った」と語りました。
「賢かったのね」と感心するまひろさん。
「薬師は初めて出会ったいい人物、朱さまもいい人物だ」と話す周明さん。
そんな周明さんに、「苦しい目に遭って大変だったろうけど、宋は日本よりも懐が深いのではないのか」とまひろさんは言います。
「どうだろう」と答える周明さんでしたが、まひろさんは宋の話を聞きたがり、「松原客館には宋から持ってきた色々な品があるそうだけど、書物はあるの?どんな書物?白楽天のはあるの?」と矢継ぎ早に尋ねました。
周明さんは「書物の事は知らない」と言います。
しかし周明さんは宋がもたらす品物について語ります。
「陶磁器や香木、薬や織物や酒に食べ物。貂の毛皮もある」と言いました。
「貂の毛皮…」と興味を示すまひろさんに、周明さんが宋語で何か話しかけてきます。
『不相信我』
それは「俺を信じるな」と言う意味でした。
理由を訊かれ、「宋人は信じるなと越前の役人が言っていた」と周明さんは答えます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>光雅の言っていた莫大な量のお宝とはこのこと>酒と食べ物をのぞけば平安京の貴族にとってもマストアイテムであり、その詳細は以下の記事にもございますのでよろしければ。
やっと記事リンクだけは貼る様になりましたか。
中華マウントを取るだけでなく具体的に説明をお願いします。
作中でもこれまで宋の貿易品は出てきていました。
平安時代初期には貴族の間で唐物が重要な献上物やステータス・シンボルとなります。
唐物とは、中世から近世にかけて中国から日本に渡来した輸入品の総称で狭義には宋、元、明、清時代の美術作品を指す場合もありました。
『うつほ物語』には宮中の蔵人所に収められた唐物の記述があります。

蔵人所にも、すべて唐土の人の来ることに、唐物の交易したまひて、上り来るごとには、綾、錦、になくめづらしき物は、この唐櫃に選り入れ、香もすぐれたるは、これに選り入れつつ、…

『うつほ物語』内侍のかみ巻

平安時代、朝廷は海外の商船が持ち込む財物を優先的に買い上げる『唐物使(からものつかい)』を大宰府に派遣し先買権を行使し、貴族たちも私的な買い付け人を送り、朝廷はしばしば競合を防ぐため禁令を出しました。
大宰府に商船が入港すると、唐物使が派遣され優先的に良品を持ち帰りました。 
『唐物御覧』という儀礼が行われ、天皇がそれらの唐物を眺めた後、天皇の親族や摂関など限定された範囲に分配贈与されました。(参照:新装版 唐物と東アジア 舶載品をめぐる文化交流史)

素焼きの土器が発達し、釉薬を使い光沢が出せる様になったのが陶磁器です。
唐では唐三彩という陶器が作られますが、主に副葬品として用いられていました。
宋代では白磁・青磁など磁器の技術が進み、江西省の景徳鎮を中心に陶磁器の生産(窯業)が盛んになり、『宋磁』と言われる中国の陶磁器の全盛期となります。
西欧では陶磁器のことをチャイナ(china)と呼び、宋・元・明・清を通して中国の重要な輸出品とされ、西アジア、ヨーロッパにも運ばれました。

『うつほ物語』には、『秘色(ひそく)の杯(つき)』という中国の越州窯で作られた青磁の坏が登場します。
また、『源氏物語』でも末摘花の使用する食器として『秘色』が出てきますが(『御台、秘色やうの唐土のものなれど』)越州窯の青磁が廃れ、十一世紀以降輸入量の減少と共に流行後れの品になっていったそうです。

越前国府で為時公目を通していた貿易品の目録らしき書類には、『大紋唐綾』や『繍錦』などの織物、『瑠璃燈爐』といった調度の他、『甘松』『甲香』『丁字』『犀角』『薫陸』『沈香』『龍脳』などお香の原材料が書かれていました。
平安時代に熟した文化のひとつに『薫物(たきもの)』があり、教養や財力やセンスの良さを表すものでしたが、大変高価で貴重なお香の原料は、全て海外から輸入していたため、高僧や貴族など一部の限られた人のみが手にすることの出来るものでした。

『光る君へ』より

薬に関しては、『典薬寮』に於いて薬師が使うものの他、貴族が私的に求めるものもある様です。
奈良・平安時代には鉱物薬、動物薬が比較的多く用いられ、正倉院に現存する薬物などから遠く海外から中国経由で輸入された『麝香(ジャコウ)』、『熊胆(ユウタン)』、『鹿茸(ロクジュウ)』、『牛黄(ゴオウ)』、『海狗腎(カイクジン)』などがあり、これらは現代でも高価な薬として珍重されています。

『小右記』長和三年(1014年)六月二十五日条には『病にかかっている小児(藤原千古=実資卿の娘)を治す生虫(なまむし)の薬を持ってきた。私は大宋国の医僧(恵清)の許にある薬を送ってきてもらうよう願い求めていたのだ。』とあり、舶来の薬を求め取り寄せている記述があります。
因みに按察納言(あぜちなごん)とは藤原隆家卿の事で『医師(恵清)のもとへ遣わし、目を治す薬を交易させた』とあります。

『小右記』長和三年(1014年)六月二十五日条

唐物では『大紋唐綾』や『繍錦』などの織物が宋から輸入されていました。
『うつほ物語』には唐の使節が来るごとに唐物の交易をしていたとあり、来朝のたびごとに唐綾、唐錦、花文綾(=唐花文様を織り出した綾)、麝香、沈香、丁子香など、珍しい品々が献上されたとあります。

かの蔵人所の十掛には、綾、錦、花文綾、いろいろの香は色を尽くして、麝香、沈、丁子、麝香も沈も、唐人の度ごとに選り置かせたまへる

『うつほ物語』内侍のかみ巻

唐綾
中国から伝来した綾織物。日本でその製法に倣って織ったものにもいう。近世では、浮織物のことをいった。

デジタル大辞泉(小学館)

繍錦
錦(にしき)と、刺繍(ししゅう)をした織物。
美しい織物。

精選版 日本国語大辞典

中国では今から5000年から6000年以上も前の大昔に酒が発明され、世界で最も早く酒の醸造が始まった国と言われています。
宋代の専売の品目は塩・茶・酒・染色用の明礬・外国産の香や薬物で、中でも高い利益を上げたのが塩や酒でした。
白酒(バイジュウ)とは国賓をもてなすためのお酒であり、世界三大蒸留酒の一つにも挙げられ、高粱(コウリャン)やトウモロコシなどを原料として作られるアルコール度数50%以上にもなるお酒です。
起源は宋代初期(900~1000年代)とされ、本格的に造られるようになったのは清代中頃(1700~1800年代)からだとされます。
作中でも筑前守の任期を終えた藤原宣孝公が土産として『唐の酒』を買い付けて来ていました。

『光る君へ』より

食料品としての羊については、メソポタミア付近でムフロンに近い原種を家畜化したものが世界に広まり、宋では羊肉が愛され宋代の宮廷料理に使用される肉はすべて羊肉といわれる程でした。
『日本書紀』に「推古七年(西暦599年)の秋9月の癸亥の朔に、百済が駱駝一匹・驢(ロバ)一匹・羊二頭、白い雉一羽を奉った。」と記述があり、その後も度々貢物に羊の名前が見えますが、高温多湿が生育に合わず、『延喜式』には、鹿醢、兎醢など獣肉を塩漬けして発酵させた加工品が記載されてはいますが、仏教文化による肉食への忌避で食用よりも貢物だった様です。

>さらには「貂の毛皮」もありました。
>『源氏物語』では末摘花が愛着していた品物ですね。
>この貂の毛皮は、朝鮮人参と並び、女真族(現在の満洲族)が商う品の定番だったのです。
>女真族は宋を軍事的に圧迫し苦しめ続け、ついには靖康の変を起こします。
>宋は南遷し、女真族は北部に金を建国することになります。
『女真族』は満洲の松花江一帯から外興安嶺以南の外満州にかけて居住していたツングース系民族で遼と高麗に朝貢し、朝鮮人参(オタネニンジン)や毛皮、馬や金の産地で高麗や契丹とを交易していました。(日本との交易はありません)
金の建国は1115年。
皇帝欽宗、太上皇徽宗以下多数の皇族が北方へ拉致された『靖康の変』は1126年です。
日本では平安時代末期、崇徳院の御代です。

『源氏物語』第1帖「桐壺」には桐壺帝に連れられた幼い源氏の君が鴻臚館(こうろかん)で高麗人の相人(占い師)に観相してもらい、「最高の位に上る相があるが、そうなると世が乱れる」と告げられる場面があります。
この鴻臚館は博多津ではなく、京の都・七条にあった東鴻臚館で、主に越前国の松原客館に滞在し、都からの使者に伴われ上洛した渤海国の使節団(渤海使)を迎賓した施設でした。

渤海国は、現中国東北部から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけてかつて存在した靺鞨(まっかつ)族の国です。
渤海使が朝廷に献上したのは毛皮、人参、蜂蜜などで、日本からの返礼品は絹、綿などの繊維製品でした。
上品のうち最も貴族たちが欲したのが虎、豹、羆、貂などの毛皮でした。
『延喜式』では、虎の皮は五位以上の役人、豹の皮は参議以上の役人しか身に付けてはならないと記されています。
『源氏物語』第六帖 「末摘花」では雪の降る寒い朝、源氏は故常陸宮の姫君・末摘花の姿を見て「見なければよかった」と後悔します。
その装いの中に『黒貂の皮衣』が出てきます。
美しく香を焚きしめた黒貂の毛衣の内側に、酷く色褪せた襲に汚れきった袿を着込むという奇妙な出で立ちでした。
高級なロシアンセーブルのはずなのに、「若い女性の着るものとしては不釣り合いで、仰々しい。とはいえこの毛皮がなくては、さぞ寒いことだろう」と源氏の君は評しています。

『源氏物語』第六帖 「末摘花」

>平安時代だと渤海国からの品とされ、日本だと中国大陸北部の品物はアイヌ経由で伝えられることが多いものでした。
中国大陸北部の品物はアイヌ経由で伝えられることが多いものでした。』
それはどこの資料によるものでしょうか。
具体的に提示してください。
渤海から日本への使節(渤海使)は727年から930年までに34回、日本からの遣渤海使は728年から811年までに15回を数え、お互いの国を送迎していました。
渤海使は北西の季節風とリマン海流を利用し、朝鮮半島沿いに南下した後、対馬海流に乗り主に秋から冬にかけて日本に来航しました。帰国時には対馬海流に乗って東北地方の沿岸を北東に進み、北海道、サハリンで西に舵を取りリマン海流に乗り、沿海州の沿岸を南下したようです。
季節風や海流に抗して推進する事は難しく、厳冬の日本海を縦断する事はできなかったため、8世紀に来航した13回中6回出羽国に来着している記録があります。
航海は安穏なものではなく日本海側各地に漂着し、最初の使節の高仁義は出羽に漂着し、その多くが蝦夷に捕らえられてしまうという苦難を味わっています。
8世紀には新羅と渤海・日本の関係は悪化していたため、朝鮮半島経由ではなく沿海州・サハリン・北海道を経由する『北回り航路』や日本海を直接横断するルートをとっていたと考えられています。
新羅征討以後,唐・新羅などとの関係の安定をみた渤海は毛皮・人参・蜂蜜などをもたらし、日本からは絹・絁(あしぎぬ)・綿・糸など繊維製品を輸出しました。

>ヨーロッパではロシア経由で伝わります。
>ロシア皇帝アレクサンドル1世がナポレオンに贈り、ナポレオンがそれを妹・ポーリーヌに贈り、ポーリーヌがそれを兄に無断で恋人に贈ってしまい、揉めに揉めたなんて話もあります。
渤海使とも平安時代とも全く関連しない時代ですが。
アレクサンドル1世は19世紀初めのロシア・ロマノフ朝の皇帝です。
1805年、ナポレオンの妹・ポーリーヌがサロンを開き、ワグラム公爵の副官ジュール・ド・カノンヴィルと恋仲になりました。
しかし、兄・ナポレオンがアレクサンドル1世からもらい彼女に与えていた黒貂の毛皮で裏張りした外套を彼にあげてしまった事で怒ったナポレオンは2人を別れさせてしまいます。
ジュールはフランスとロシアの戦いで戦死し、ポーリーヌは彼の死を悲しみ「自殺するか修道院に入る」と言ってナポレオンを脅し、兄に説得され思い止まります。

・宋の言葉を知りたいか??

>江戸時代の幕藩体制では、対馬藩と松前藩は石高が一万石に満たない特殊な藩でした。
>なぜ、そんな石高で運営できたか?
>というと、対馬は朝鮮経由、松前はアイヌ経由という、交易で成立する藩だったからです。
対馬藩は対馬国(長崎県)下県(しもあがた)郡与良(よら)郷府中に藩庁を置いた外様藩で、藩主は宗氏です。
対馬島は統一政権の検地を受けておらず、、格式のみ10万石以上とされていました。
対馬島は生産力が低く、朝鮮から米1万6000石余を輸入し、藩財政のかなりの部分を貿易に依存していました。(出典 小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』)
松前藩は北海道の松前を本拠に蝦夷地(えぞち)を領有した外様藩で、1593年(文禄2)豊臣秀吉に船役徴収権を,また1604年(慶長9)徳川家康からアイヌ交易の独占権を認められ成立しました。
藩主は松前氏です。
蝦夷地は寒冷地のため米作ができず公的には無高(むだか)でしたが、蝦夷一円の領有で蝦夷交易権を独占していました。
上級家臣に知行としてアイヌ交易権を分与する商場(あきないば)知行制を取っており、寛文9年(1669年)のシャクシャインの戦など大規模な民族蜂起を招きました。(出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」)

>「宋の言葉を知りたいか?」
>周明はそう言い、宋語で話すと、すかさずまひろは「私は周明です」と解き明かす。
まひろさんは「宋の国は身分の低いものでも試験を受ければ官職を得られるのでしょ?そういう国に行ってみたいとずっと思ってきたわ」と科挙の話題を持ち出し宋という国に思いを馳せます。
周明さんは「宋の言葉を知りたいか?」と言い、宋語で「ウォジャオ ヂョウミン(私は周明です)」と自己紹介をします。
早速真似をして「ウォジャオ マヒロ」と自己紹介するまひろさんに、「お前こそ賢い」と周明さんが褒めます。

『光る君へ』より

>対馬のあたりは国境があってないようなもので、日本、中国、朝鮮が入り混じった人々が暮らしていました。
>もっと時代がくだりますと「倭寇」という集団も出てきます。
>これを「倭人(=日本人)の海賊」と解釈し、中国人も含まれているから捏造だという意見もあります。
倭寇とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊行為や私貿易、密貿易を行う貿易商人に対する蔑称です。

・前期倭寇
主に北部九州を本拠とした日本人と一部が高麗人で構成され13世紀〜14世紀前後に朝鮮沿岸や中国沿岸(登州、膠州など黄海沿岸)を荒らした。

・後期倭寇
明の海禁政策による懲罰を避けるためマラッカ、シャム、パタニなどに移住した中国人が多数派を占め、対馬、壱岐、松浦、五島、薩摩など九州沿岸の出身である日本人や諸民族もいた。
主として15世紀後半~16世紀に東シナ海、南洋方面で活動した。

何見氏のいう『中国人も含まれている』のは『後期倭寇』です。

『倭寇図巻』
東大史料編纂所 所蔵

>国家と国民をセットにして統治すべきだとされていくのは、もっと時代が下ってからのこと。
国家と国民をセットにして統治すべきだとされていた時代を具体的に提示してください。
江戸時代、江戸幕府はキリシタンではない事を証明させるための宗教統制の一環として、『寺請制度』を設けました。
寺請制度の確立によって民衆はいずれかの寺院を菩提寺と定め、その檀家となり寺請証文を受ける事を義務付けられました。
寺院では現在の戸籍に当たる『宗門人別帳』が作成されました。
旅行や住居の移動の際にはその証文(寺請証文)が必要とされ、寺院に一定の信徒と収入を保証される様になりました。

・周明の中国語講座?

>周明による中国語講座が始まりました。
宋語での自己紹介をすかさず真似るまひろさんを「お前こそ賢い」と周明さんが褒め、語学講座が始まりました。
口伝で宋の言葉を教える周明さん。
「ネイワイ(中外)」
「ウォシー グゥオショウ デェ゛ァニュェ゛ァー(私は国司の娘です)」
「ワィビィェン ヘンラン(外は寒い)」
「ウォデェァ゛フーチン シー ユェチィェンデェ゛ァ グゥォショウ(私の父は越前の国司です)」
まひろさんの発音を訂正しながらも、周明さんは宋語の様々な単語や簡単な構文を教えてくれました。
「まひろは覚えが早い。賢い」と感心する周明さん。
周明さん自身もまひろさんと話す事で、忘れていた日本の言葉を思い出していました。
「私のおかげ?」と言うまひろさん。周明さんは「おかげではない。俺の心のことだ」と言い、まひろさんは「失礼しました」と言います。
そして『失礼しました』の宋語を知りたがりました。
周明さんの「シーリーラ(失礼しました)」の後にまひろさんが「シーリーラ!(失礼しました)」と繰り返します。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

やがて越前はいつしか冬になりました。
まひろさんと周明さんの2人は火桶で手を温めながら風邪のことを話しています。
「デェ゛ァフォンハン(風邪)」
まひろさんは「風邪を引いたら鍼で治して」と頼んでいます。
すると周明さんはまひろさんの手を取り、「指の間に刺すと熱が下がる」と言います。
まひろさんが「えっ…こんなとこ痛そう」と言うので周明さんは「だから風邪は引くな」と言いました。
そして、まひろさんは外に雪が舞っているのに気付きました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

越前は有数の豪雪地帯。
国府にも深々と雪が降り積もります。
まひろさんは越前和紙に筆を走らせ歌をしたためました。

ここにかく 日野の杉むら うずむ雪 小しほの松に けふやまがえる

意訳:
日野岳の杉林は、雪に深く埋れんばかりだ。
今日は、都でも小塩山の松に、雪がちらちらと散り乱れて降っていることであろうか。

『紫式部日記』 紫式部集

詞書には、『暦に、初雪降ると書きつけたる日、目に近き日野岳(ひのたけ)といふ山の雪、いと深く見やらるれば』とあります。
ここで言う『暦』は具注暦でしょうか。
紫式部はこの頃から日記を綴っていたのかもしれません。
日野山(=日野岳・標高794㍍)は越前の国を代表する名峰のひとつで、地元では『越前富士』とも呼ばれています。
紫式部は越前国府から日野山に降る雪を眺め、都の西方にある小塩山(京都市西京区)の雪景色を思い出し都を懐かしんだのだそうです。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

・帝は中宮を思い、袖を濡らす日々を送る?

>そのころ都の道長も、手のひらに舞い降りてくる雪を見ていました。
まひろさんが越前国で故郷の京に思いを馳せている頃。
京でも雪が舞い、道長卿はそれを掌に受け止めて見ています。
帝は藤原行成卿の筆による古今和歌集の写しを、蔵人頭である行成卿自身にお見せになります。
「中宮(定子さま)がそなたの文字を気に入って、朕と2人でよく見ておったゆえ、だいぶん傷んでおる」と帝が仰います。
さらに「中宮が好きなのは、紀貫之の「夢路にも 露やおくらむ 夜もすがら かよへる袖の ひちて乾かぬ」である」と仰います。

夢路にも 露やおくらむ 夜もすがら かよへる袖の ひちて乾かぬ
紀貫之

意訳:
夢の中で辿る道の草にも露は置くのだろうか。一夜をかけて往き来する私の袖は濡れて乾くことがない。

古今和歌集・恋二・574

『想い人に逢えず、ひと晩じゅう泣いて袖が濡れて乾かない』という現実に対する帝のご心痛と『一夜の夢の中で恋しい人の元に通って露に濡れた』という歌がリンクした様です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

「あの頃はこの様な事になるとは、誰も思っていなかった」と帝は行成卿から古今集の写しを献上された頃を寂しげにお思いになります。
「お上と中宮さまのお美しさを、私は生涯忘れませぬ」と行成は答えました。
帝は「健やかに過ごしているのか、そろそろ子も生まれる」と定子さまの健康と出産をお気になさいます。
「高階に密かに行く事は叶わぬであろうか」とお尋ねになる帝に、「中宮様は出家なされましてございます」と行成卿は諫めます。
帝は「そうではあるが」と諦め難いご様子でした。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

「お心の痛みが伝わってくる様で、苦しくなった」と行成卿は道長卿に打ち明けました。
道長卿は「頭を冷やせ」と言います。
さらに道長卿は「帝の術中に嵌まってはならぬ。聡明な帝は行成の優しさを見抜いておられる。同情を買って利用しようとしておられる」と行成卿に忠告します。
道長卿は「帝のお側近くに仕える蔵人頭は、もっと冷静であって貰いたい」とも言い、行成卿は「承知しました」と言った後「未熟であった」と反省しています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>出家したということは、生きながらに世を捨て、男女の愛情とも訣別したと言うことです。
>それを破ると、花山院のようにバツの悪い思いをすることになります。
元々好色で自らが退位なされ出家の身であるにも関わらず、三の君光子さまの元に通われ、内大臣伊周卿と弟・中納言隆家卿が奉射事件を起こした長徳の変に巻き込まれた花山院と違い、一条帝はまだ帝であり、俗世に身を置かれた方です。
一方定子さまは長徳の変の折に内裏を退出し自ら落飾して父も母も今は亡くなり、身重でもあるため母の実家・高階邸で暮らしています。
道長卿や行成卿は定子さまが身重なれど落飾された方であり、俗世を捨てた方に帝が通われるのは下々に示しが付かないと諌めているのです。
もちろん帝が寵妃に現を抜かし、政を疎かにしては唐の玄宗皇帝の様に障りがあるとも言えます。
後に白楽天の『白氏文集』を写す行成卿が「頭を冷やせ」と道長卿に言われ、ハッとなるのもむべなるかなとも言えます。(行成卿が写したのは『長恨歌』ではありませんが)

定子さまはたった一人の后で『中宮』という高位の后でしたが、関白だった父を亡くし後ろ楯が無いという境遇は少なからず『源氏物語』の桐壺の更衣の『しっかりした後見もいない后で誰よりも帝の寵愛を受けるが、頼れる人がいない境遇の中で帝の愛情を頼りにしていたが今は内裏を出ている』という人となりに反映しているのではないでしょうか。
また桐壺帝も『桐壺の更衣を寵愛し、特別扱いする帝の振る舞いには非難の声もあがるが気にもお留めにならず、内裏を出た后に逢おうとする』お姿が定子さまにお逢いになりたがる一条帝を彷彿とさせます。

・倫子の策により、道長の権威が増す?

>藤原道長と源倫子が枕を並べて寝ています。
>帝は、女御の義子とも元子とも会わない。
長徳2年(996)7月藤原公季公の娘・藤原義子さまが入内、次いで11月藤原顕光卿の娘・藤原元子さまが入内しました。
土御門殿の寝所では藤原道長卿と嫡妻の倫子さまが床を並べて休んでいます。
倫子さまは、「義子さまに続いて元子さまも入内されたけど、帝はどちらにもお会いにならないらしいのです」と夫に伝えます。
中宮定子さまが出家された後、入内した太政大臣・藤原公季卿の娘・義子さまと右大臣・藤原顕光卿の娘・元子さまでしたが、定子さまを思慕される一条帝は二人の女御にお逢いになりません。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

「そんな噂がもう聞こえているのか?」と驚く道長卿。
倫子は、「中宮さまを忘れない帝の気持ちは分かるが、入内した女御たちが気の毒です」と話し、道長卿も同意します。
そして倫子さまは、「殿が帝と女御さま方を結び付けるべく、何か語らいの場でも設けられたらよろしいのに」と言います。
「ここで会を催すということか?」と道長卿が尋ねます。
倫子さまは寝具から半身を起こし「あっ、そうですわ。ここで催しません?女院様もおられるし、帝もお出ましになりやすいですし」と乗り気になっています。
そして「それがいいわ。万事お任せくださいませ」と言い企画を引き受けます。
「頼もしいのう」と道長卿。
倫子さまは「まずは入内されたばかりの元子さまからにいたしましょう」と先に元子さまを呼ぶことにします。
「お二人鉢合わせはまずいですものね。ふふふ…」と笑う倫子さまです。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>このドラマの道長は女の担ぐ「神輿」になっていると思えます。
>積極的に動くのは彼の周りの女たちで、道長はそれを制止しないことで権力を保持している。
道長卿が『女の担ぐ「神輿」』というよりも、倫子さまの内助の功ではないでしょうか。
高い知性を備えた明るく機転が利く女性が積極的に前に出て自分の力を発揮できる環境である事は、後宮や他の貴族たちとの結びつきを強くするために大切な事だったと思います。
作中でも、中関白・藤原道隆卿の嫡妻・高階貴子さまは才能のある若い貴族を発掘し道隆卿の側に取り込むための漢詩の会を計画したり(6回)、嫡男・伊周卿の婿入り先を選ぶための和歌の会を催したりしました。(14回)
尤も和歌の会は伊周卿個人の見合いの様なものでききょうさん曰く「志も持たず、己も磨かない」女性たちと辛口評価でした。
また、一念発起ききょうさんの『女房として出仕する』宣言を引き出し、定子さまと『清少納言』の運命が回り始めるきっかけになりました。

この様に人と人を結びつけ才能を見極めるために娘や妻の才能を否定しないのは大事なのでは。
今回は倫子さまが定子さまを思い積極的に新しく入内した女御達と関わりになられない帝を女院・詮子さま同席の許、女御達とお近づきになれる機会を作り、公卿との関係を円滑に回す政治的な意味もあるのかと思います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>元子の父である藤原顕光は、それはもう大喜びで道長に、丁寧にくどいほど感謝を告げています。
承香殿女御・元子さまの父で右大臣・藤原顕光卿は、「道長卿や詮子さまのおかげだ」と強調します。
「元子は琴が得意なので帝とお手合わせできるのを楽しみにしていた」と言い、さらに「こたびのお計らいお礼の言葉とてござりませぬ」と道長卿にくどいほどに礼を述べました。
身分の高い家柄に生まれた藤原顕光卿ですが、無能だと評される事が多い人物でもありました。
顕光卿にとっては『帝と女御さま方を結び付け女院さまにも便宜を図ってもらえる様な語らいの場』を最高権力者である道長卿が取り持ってくれた事で、もしこの機会に帝との仲が睦まじくなり皇子が産まれれば外戚として浮上できるかもしれないという政治的思惑があるのではないでしょうか。

『光る君へ』より

>元子は琴が得意でした。
>それに合わせ、帝は龍笛を吹いています。
土御門殿での一条帝と元子さまの語らいの会当日。
帝と元子さまの他、女院詮子さま、道長卿、倫子さま、そして元子さまの父・藤原顕光卿が同席しています。
帝のお吹きになる笛に合わせて元子さまが琴を奏でます。
しかし、間もなく帝は笛をお吹きになる事をお止めになってしまいました。
帝は龍笛を定子さまにお聞かせになった思い出が強く残り、元子さまの箏との合奏も気が進まなかったのでしょう。

『光る君へ』より

>当時の笛は肺活量のある男性の楽器で、かつ「龍」とつく龍笛は神秘的なものでした。
中央アジアが発祥の横笛はシルクロードを経て中国に伝わり龍笛となり、飛鳥時代に日本に伝来しました。
龍笛は能管、篠笛など和楽器の横笛全般の原型・先祖であるともいわれ、2オクターブの音域を持ち、その音色は「舞い立ち昇る龍の鳴き声」と例えられます。

古語で『遊び』という場合、貴族達の必須教養である詩歌管弦を指します。
貴族社会では笛や琴などの楽器を演奏し、時に合奏や謡物に加わる『管弦の遊び』は遊戯である一方で重要な社交の場でもありました。
特に天皇・上皇が主催されたものを『御遊』といいました。
『管弦の遊び』で使われるのは『横笛』『笙』『篳篥』などの木管楽器、『和琴』『箏』『琵琶』などの弦楽器、『羯鼓』『楽太鼓』『鉦鼓』などの打楽器です。
貴族の女性は教養として『第一に書、第二に箏、第三に和歌』とされました。

作中では元子さまだけでなく、高階貴子さまや倫子さまも箏を奏でていました。
貴子さまの時は道隆卿が龍笛を吹いていました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『源氏物語手鑑 若菜三』土佐光吉
重要文化財
和泉市久保惣記念美術館 蔵
『住吉物語絵巻』断簡
重要文化財
東京国立博物館 蔵

・熱病のような愛を詮子は知りたい?

>詮子が悩んでいます。
詮子さまは、「帝の中宮への想いは熱病のようね」と言います。
さらに詮子さまは夫であった円融院に愛でられたことがなく、「ああも激しく求め合う二人の気持ちがわからない」と言い、「お前には分かる?分からないわよね」と自問自答します。
道長卿は「妻は二人いますが心は違う女を求めております。自分ではどうすることもできません」と語ります。
「やっぱり!」と言う詮子さまですが、「もう終わった話でございます」と道長卿は答えます。
「下々の女子でしょ。捨てたの?」と詮子さまが尋ねると、道長卿は「捨てられました」と答えて詮子さまを驚かせます。
詮子さまは袖で口元を隠しながら「道長を捨てるってどんな女なの?」と尋ね、道長卿は「よい女でございました」と言います。
詮子さまは「まあ…」と口元を綻ばせます。
「夫を繋ぎ留められなかった私にない輝きがその人にはあるのね」と言います。
「中宮も帝を引き付けて散々振り回しているけれど私には無い。それは何であろう?」と道長卿に尋ねますが、道長卿は「今宵は帝が元子さまをお召しになられるよう祈りましょう。」と言って簀子縁を離れようとします。
詮子さまは「倫子と明子はその女を知っているの?」とさらに道長卿を問いました。
「利口だから気付いているかも知れない」とまた自問自答する詮子さまに道長は「では!」と去っていきます。
詮子さまは「何よ、自分から言い出しておいてもっと聞かせなさいよ」と弟の後ろ姿に問い詰めます。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

>少なくとも倫子は何らかの違和感に気づいているでしょう。
>いつか夫が大事に取っていた文と、越前から藤原為時名義で送ってきた文が、実際はまひろが書いたものだと見抜けるかもしれません。
倫子さまは道長卿が後生大事にしているまひろさんの送った漢詩を見て「女文字ではないか」と薄々感じていました。
まひろさんの就活の際、彼女を呼び出してそれとなく問い詰めてもいます。
道長卿は悲田院で民の視察の際、疫病に倒れたまひろさんを自宅に送り一晩看病し、朝に土御門殿に帰っています。
「ゆうべは高松殿でございましたか」と声を掛ける赤染右衛門に対して倫子さまは「衛門。殿はゆうべは高松殿ではないと思うの。殿の心には、私ではない、明子さまでもないもう一人の誰かがいるわ」と不敵な笑みを浮かべていました。
かつて道長卿とまひろさんが想い合う仲だと知らずとも道長の異変に敏感でありながらそれを飲み込み、嫡妻として教養や機転を駆使し家政の諸事万端を決裁する役目を担っているのではないでしょうか。

・中宮定子の眩い日々を残す『枕草子』?

>身重の藤原定子は『枕草子』を読んでいます。肝心のききょうさんの差し入れた『枕草子』の内容や出産準備の具体的な様子が全く紹介されておりませんが、興味がありませんか。
お産が近づき高階邸の定子さまの局はすっかり調度が白い物に替えられていました。
白装束に身を包んだ定子さまは、ききょう(清少納言)さんが書いた『うつくしきもの』の鶏の親子のくだりを読んでいます。

鶏の雛の、足高に白うをかしげに、衣みじかなるさまして、ひよひよとかしかましう鳴きて、人の後・前に立ちて歩くも、をかし。
また、親の、ともに連れて立ちて走るも、皆うつくし。

意訳:
鶏のひなが足が長い感じで白くてかわいらしくて 着物を短く着たような格好をして ぴよぴよとにぎやかに鳴いて 人の後ろや先に立ってついて歩くのも愛らしい。また親がともに連れ立って走るのも みな かわいらしい

『枕草子』「うつくしきもの」

定子さまが「姿が思う浮かぶようである。見事である」と褒めます。
ききょうさんは「お恥ずかしゅうございます」と恐縮します。
定子さまは「御簾の下から差し入れてくれる日々の楽しみがなければ私はお腹の子と共に死んでいたであろう」と打ち明けました。
そして定子さまはききょうさんをお側に呼びます。
「小納言。ありがとう。この子がここまで育ったのはそなたのおかげである」との定子さまの言葉に、「勿体ない」と頭を下げるききょうさん。
定子さまは「そなたを見出した母上にも礼を言わねばならぬな」と言い、ききょうさんは「登華殿に、御母上(貴子)さまに呼ばれて初めて上がった時、亡き関白(道隆)さまはじめ皆様がきらきら輝き目が眩む様でありました」と述べます。
「懐かしいのお」と定子さま。
定子さまは、「あの頃がお主の心の中で生き生きと残っているならば私は嬉しい」と言います。
ききょうさんは感無量で「しっかりと残っています。しっかりと…」と答えます。
翌日、定子さまは姫皇子を出産しました。

>どうして『枕草子』があんなにもキラキラとしているのか。
脩子内親王は長徳2年12月に生まれました。
この時定子さまは出産予定から大幅に遅れており、世人は『妊娠十二ヶ月である』と噂しました。(予定日がずれ込む事は多々あるのですが。)
定子の父・道隆卿はすでに亡く、兄・伊周卿、弟・隆家卿は「長徳の変」で失脚。
定子さまも出家の身であり、中関白家は没落の一途、母・貴子さまも亡くなり高階邸でひっそり暮らしていました。
その様な不安な中で明るく過去の栄華や日々の様子を描いた『枕草子』は定子さまの支えだったのでしょう。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

平安時代では、出産は「穢れ」だと考えられ皇后や中宮でさえも宮中で出産することは許されず、出産は陰陽師が良い方角を占い『産屋』とよばれる部屋で行われました。
産屋の壁や几帳は白い物に替わり、産婦や付き添う女房たちも白衣を纏うことが一般的でした。
当時は悪霊や邪気は健康を害するものや妊娠・出産の障りがあるものとして大変恐れられ、『源氏物語』の葵の上の様に力尽きてしまう可能性もある命懸けの出産の場合もありました。
出産時には僧や修験者による祈祷が行われ、弓の弦を鳴らして邪気を祓い続ける騒がしい環境で出産しました。

>行成は帝に、定子の皇女出産を伝えます。
>帝は中宮の無事を知りたがると、健やかであると告げる。
内裏では蔵人頭・行成卿が「今朝、姫皇子がご誕生になられました」と帝に伝えました。
帝は定子さまが健やかであるとの報告に安堵され、「中宮に会って労いたい」と仰います。
しかし行成卿は無言のままです。
その意味を悟られた帝は、「…絹をたくさん送ってやれ!今年は寒いゆえ」とお命じになりました。
帝が産まれたばかりの脩子内親王にと贈られた絹は『産養ひ(うぶやしない)』の品でしょうか。

『光る君へ』より

・居貞親王の真意?

>内裏には居貞親王(後の三条天皇)がいて、本作では初登場となりますね。
東宮・居貞親王は、道長卿のもう1人の姉の子である』と語りが入ります。
居貞親王は藤原超子さまの子で、一条帝より4歳年上でした。
居貞親王は皇子の敦明(あつあきら)親王をあやしていました。
そこへ道長卿が訪ねて来ました。
「珍しいな叔父上、わしのことなど忘れていると思っておった」と居貞親王が仰います。
「雑事で参上できませんでした」と道長卿は詫び、御息所の娍子(すけこ)さまに「敦明親王はいくつになったか」と尋ねます。
「3歳です」と答える娍子さま。
居貞親王は「帝の子は女であったそうだな。出家した尼が子を産むとは由々しき事。しかし産養の支度にも事欠くそうだから祝いを送ってやれ。叔父上に任せる」と仰います。
道長卿はそれを承諾しました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>出家した尼が子を産むのはゆゆしきこととしつつ、祝いを贈るように道長に伝える。
東宮・居貞親王は『産養の支度にも事欠くそうだから祝いを送ってやれ。』と言っていますが、『産養』がどういう儀式であるかの解説は無しですか。

産養ひ
平安朝の貴族社会などで行われた通過儀礼の一つ。 小児誕生の夜を初夜といい,その日から3,5,7,9日目に当たる各夜ごとに親戚・知人から衣服・調度・食物などが贈られ,一同参集して祝宴を張り,和歌・管絃の御遊に及ぶ。

株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」

定子さまは両親や兄弟の後ろ楯を失い出家しているので産養いの儀礼もままならないのかもしれません。

>さて、この野心を胸に秘めていそう東宮は、安倍晴明と何やら話し込んでいます。
『野心を胸に秘めていそう東宮』は『野心を胸に秘めていそうな東宮』でしょうか。
『な』が抜けています。
その後、居貞親王は安倍晴明公をお呼びになり、「お前が言っておった様に皇女であったな。このまま皇子ができなければ我が子敦明が東宮であると思うてよいな」とお尋ねになります。
しかし晴明公は「恐れながら帝に皇子はお産まれになります」と答えます。
「誰が産むのか?新しい女御の子か?」とお尋ねになる居貞親王。
「中宮さまの皇子であろうと存じます」との晴明公が答え、居貞親王は「なんと…!」と驚愕なさっています。

『光る君へ』より

・宣孝は越前に来るのか??

>長徳3年(997年)になりました。
年が明け、長徳3(997)年春。
越前では為時公が、「宣孝が昨年文を寄越した」と話していました。
「宣孝殿は年が明けたら宋人を見に越前に行くと文を寄越したがとうとう来なかったな。相変わらずいい加減だ」と言う為時公。
まひろさんは「愉快でお気楽なところが宣孝殿の良いところ」と言います。
為時公も「最初から来るまいと思っていた」と当てにはしておらず、まひろも「決してお見えにならないと思っておりました」と同意しました。

親戚であり、親友であり、貧しい時は援助もしてくれた宣孝に、なかなか当たりがきつい親子です。
>この親子は変人で、真面目すぎるということもあるのでしょう。
親子共に勉強熱心で学才もありますが、特に為時公は融通が利かず堅物なところもあり、宣孝公も生きづらい彼に何かと助言していました。
散位していた時には親戚で友である宣孝公が一家を経済面の援助だけでなく、まひろさんの縁談の世話までしてくれました。
親子が「年が明けたら宋人を見に越前に行くと文を寄越したがとうとう来なかった」と言いあまり当てにしていなさそうなのは長年気を許せる親戚で親友という間柄だからこそで当たりがきつい訳でもないと思います。
『紫式部集』にはこの様な歌があります。

 春なれど 白嶺(しらね)の深雪 いや積り 解くべきほどの いつとなきかな 

意訳:
春にはなりましたが、こちらの白山の雪はますます積もって、いつ解けるものかわかりません。

『紫式部集』

「年かへりて、『唐人見に行かむ』といひたりける人の、『春は解くる物と、いかで知らせたてまつらん』といひたるに」という詞書きがあり、年が明けたら「唐人を見にそちらへ参ります」と言っていた宣孝公が、年が明けると、「春になれば氷さえ解けるもの。貴方の心も溶けるものだと、どうにか教えてあげたい」と言ってきた事に対する返歌で『春になっても私の貴方に対する気持ちは解けません』という意味なのだそうです。

>宣孝は、まひろに宋語の勉強の進捗を尋ねます。
まだ宣孝公は越前に来ていないので『宋語の勉強の進捗』を尋ねたのは為時公です。
「宋語の勉強は進んでおるか?」と為時公に訊かれ、「まだまだ父上には追いつきませぬ」とまひろさんは答えます。
しかしまひろさんは楽しそうです。
「実際学ぶのが面白く音を聞けば漢文が浮かぶ」と言います。
為時公も「お前は覚えがいいから周明も教え甲斐があろう。幼い頃漢詩も一度聞けば覚えてしまった」と振り返りますが「覚えていない」とまひろさんは言います。
為時公は「長い間官職を得られなかったため、そなたに婿を取れなかった事を申し訳なく思う」と謝ります。
まひろさんは「いきなりどうしたのか?」と驚きましたが、為時公は「周明は骨のありそうな男だ。
かの人にとってもお前は救いであろう」と周明さんをまひろさんの婿にと思っていました。
「周明に取ってもまひろは救いであろう」と言う為時公にまひろさんは「自分たちはその様な仲ではありませぬ」と言います。
為時公は「ならばそれで良い、好きにせい!」と微笑み、「それはございませぬ」とまひろさんは答えます。
為時公は「私は明日から越前国内の巡察へ行く」と伝えます。
供を申し出るまひろさんに、為時公は「ここにおれ。雪も解けたゆえ心配するな」と言います。

・周明の目的は??

>まひろと周明が、浜辺にいます。

まひろさんは浜辺で周明さんと雑談をしています。
「海の向こうには宋の国がある」とまひろさんが言います。
頭上を飛ぶカモメを見てまひろさんが「つがいのカモメ…」と言い、周明さんが「フーフーハイオウ。夫婦のカモメだ」と宋語を教えています。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

「周明に妻はいないの?」とまひろさんが尋ねると「いない」と周明さんが答えます。
まひろさんは「他の人たちには身寄りがいるのだから帰りたい人は帰るのが良い。待っている人もいると思う」と言います。
周明さんは「俺に帰ってほしいのか、国守さまの仕事の手伝いか?」と尋ねます。
まひろさんは「関係ない。自分がどうしたいではなく、宋の人たちがどうしたいかが大事だと思っただけ。父の力にもなりたいが、それが全てではない」と答えます。 
周明さんは「朱様が帰ると言わなければ我々は帰らない。なぜ朝廷は宋との直々の取引を嫌がるのだ?」と問います。
まひろさんには詳しくは分からなかったが、「なぜあの人はそこまで頑ななのかしら?」と言います。
「あの人とは誰の事か?」と周明さんに問われ、まひろさんは「左大臣様。帝の次に偉い人」と答え、「知り合いとは宋語で何と言うのか?」と尋ねます。
周明さんは「朋友はポンヨウ。知り合いはシャンシイ」だと教え、まひろさんは「ポンヨウ、シャンシイ」と繰り返します。
少し離れた場所にはその様子を見ている騎上の男がいました。
それは藤原宣孝公でした。
乙丸が「姫さま」とまひろさんを呼び、宣孝公は下馬し「宋人を見に参った」と二人の近くにやって来ました。
まひろさんは宣孝公を「遠い親戚で父の長年の友である藤原宣孝さま」と周明さんに紹介し、周明さんも「宋の薬師だ」と自己紹介しました。
「父の病もあっという間に治してくれた名医なの」と言うまひろさん。
宣孝も少し険しい表情で「世話になったのう」と礼を言います。
しかしなぜか周明さんは「客館に戻る」と言い、「また会おう。再見」と拱手をして去って行きました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>いったい朝廷は何を考えていたのか?
>というと、宋との取引そのものを嫌がるより、太宰府に限定したがっていました。
>朱たちが太宰府に向かえばそれでよい。
>日本は貿易港を限定する傾向があります。
>貿易を好き勝手にされて、地方の権力者が力を得たら統制に手こずる――
>そんな現実的な理由から限定したがったのでしょう。
歴史的な使い分けははっきりしないものの、現在の行政的な表記は明確に使い分けられていますので使い分けしてください。
宋との貿易を管理しているのは歴史上の政庁なので『大宰府』です。

・大宰府
古代の役所に関連する場合。歴史上の政庁・史跡。
・太宰府
中世以降の地名。現在の市名・天満宮は『太宰府』

唐の時代は唐を中心として貿易も朝貢の形態を取っていました。
9世紀の後半、唐では黄巣の乱が起き衰退し、海難事故なども多く遣唐使の派遣が朝廷にとっても負担になりました。
そして894年、菅原道真公が遣唐使の停止を建言し廃止されました。
遣唐使廃止以降の日本は対外的に消極的でした。
しかし、朝貢貿易という形式を取らないだけで宋と平安後期の日本は宋銭を国際通貨とした活発な民間交易に移ります。
また、新羅南部の沿海の流民あるいは海賊とみられる者による海賊行為が横行し、(新羅の賊)8世紀以降頻繁に対馬や北九州が襲撃された事もありました。
国家間の交易が大宰府に限定された事で日本側の政権内部に国際情報が入りにくい事は確かですが。

>ちなみに中国の時代劇ならば「告辞」(さらばだ)という言い方がありますが、そこまで再現していないようですね。
『再見』はまた会いましょう,さようなら
『告辞』は別れを告げる、(訪問先の主人に)暇乞いをする
という意味です。
周明さんは松原客館に戻るために挨拶をしたのであり、まひろさんに「再見(また会いましょう)」と言ったのではないでしょうか。

>視聴者にとってまるで中国語講座であったのが今回です。
>今にも通じる簡単な言い回しを学ぶのであればよいのでは?
>この時代の中国では、地方ごとの方言があり、なかなか再現が難しいものなのです。
大河ドラマで交流があり、中国語が出てきて『まるで中国語講座の様である』と視聴者は言っているだけで中国語講座を見てコアな宋代の地方ごとの方言を知りたい訳でもないと思います。

・意外性のある女、まひろに会いたかった宣孝?

>「越前はどうか?」
>藤原宣孝がまひろに尋ねると、楽かと思えばとんだ見込み違いで、必死で父を助けている!と答えるまひろ。
宣孝公は土産物をたくさん携えて越前にやって来ました。
「国司の仕事はどうじゃ」と尋ねます。
まひろさんは「楽で儲かると仰せになっていたが、とんでもない見込み違いで必死で父の手助けをしている」と答えます。
「それで宋語も覚えたのか、ご苦労な事だな」と言う宣孝公。
まひろさんは「羊も食べました。美味しくはなかったですが…」と言います。
「分からなすぎる…お前に何が起きておる」と宣孝公は訝っています。
「文をくだされば、父も巡察の日取りを変えたのに」と言うまひろさんに、宣孝は「文は昨年出した」と言います。

『光る君へ』より

まひろさんは「決してお見えにならないと、父も私も思っておりました」と言います。
宣孝公は「来て悪かったか」と戸惑っています。
まひろさんは、「都で多忙なのに、そう気軽に越前には来られないだろう」と思っていました。
宣孝公は「物詣と偽ってやってきた」ときっぱり言います。
「越前の事が内裏で取り沙汰されていたのが、気になっていた」そうです。
「そのような事が内裏で明らかになれば、父まで咎めを受けます」と気にするまひろさんに、「明後日には発つ」と宣孝公は言います。
「長居して嘘がばれたら、またお前に叱られる」と言われてまひろさんは怒っています。
しかし宣孝公は「お前のプンッとした顔を見たかった」と言って哄笑します。

>なんでも越前のことは内裏でも取り沙汰されているとかで、まひろはそう聞かされると、内裏での父の評判を気にしています。
「越前の事が内裏で取り沙汰されていたのが、気になっていた」のは宣孝公で、そのため越前に行くため『物詣』と偽ってやってきた訳で「発覚すれば、父まで咎めを受ける」とまひろさんは気にしたのだと思います。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

まひろさんに「これは都で流行っておる肌油じゃ。お前のプンッとした顔がますます生きるぞ。ハハハ」と言って肌油を渡しました。
そして「これは為時殿に『玄怪録』」と書簡を解きますがまひろさんは素早くそれを奪い、鼻に近づけ「都の香りがいたします」と笑います。

周明は、客館にある書物はわからないと返した。
>宣孝はまひろが好きそうな書物を渡せるのです。
『玄怪録』は牛僧孺(七七九~八四七)の作になる中国・晩唐の志怪小説集です。
志怪小説とは、主に六朝(りくちょう)時代に書かれた超自然の現象や幽霊・化物などの奇怪な説話の事です。
作中では宣孝公が為時公のために持ってきましたが、まひろさんの方が先に飛びついたという経緯です。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

そして宣孝公にはウニが供されます。
「越前のウニはおいしゅうございます。今朝採れたウニでございますの」と手渡すまひろさんに宣孝公は「すっかり越前の女のようになっておる」と言います。
ウニを半分に割り匙で突き崩して椀の中で薄めに作った塩水で洗って口に運び、まひろさんは食べ方を教えました。
「磯の香りがすごいのう、このようなウニは帝もご存知あるまい」と感心する宣孝。
そして会う度にお前はわしを驚かせると言う。「この生ウニも初めて食べた時、驚きました」とまひろさんは答えますが「そうではない」と宣孝公。

『光る君へ』より
『光る君へ』より
『光る君へ』より

「わしには3人の妻と4人の子がいて、子らはもう一人前である。官位も程ほどに上がって人生も落ち着いたと思っていた。されど、お前と会うと違う世界が垣間見える。新たな望みや未来が見える。まだまだ生きていたい」と宣孝公は言います。
「まだまだ生きて私を笑わせてくださいませ」と言うまひろさんに、「『怒らせて』であろう」と宣孝公。
「どちらでもいいが、父も国守を力の限り務めております。宣孝さまの人生が先に落ち着く事などあり得ない」とまひろさんは言い、その後琵琶を弾いて聞かせました。

『光る君へ』より

・朱仁聡と周明のたくらみ、宣孝の求婚?

>そのころ周明は“国司の娘”について朱仁聡に報告していました。
敦賀・松原客館。
周明さんは、「国守の娘は左大臣と繋がりがあります。もしかしたら左大臣の女かもしれません。うまく取り込んで文を書かせます」と朱さんに宋語で伝えていました。
日本人である事を隠していた周明さんを、宋人たちは信用していませんでした。
仁聡は「自分は信じる、うまくやって皆の信用を勝ち取る様に」と命じます。
「成功したら、私を宰相さまの侍医としてご推挙ください(宋語)」と周明さんは願い出ました。
「そなたの働きで宋と日本の取引がうまくいけば、望みはかなえよう」と朱さん。
周明さんは「全力を尽くします」と約束して平伏しました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

>宰相の名前が出てきましたので、宰相当人か、その周辺が勝手に言い出したか、それともはなから朱仁聡の出まかせか、とにかく誰かが嘘をついていると思えます。
長徳3年(997年)時点の宋国宰相は63歳の『呂端』という人物です。
幽州安次県(河北省)の出身で皇帝・太宗が呂端を宰相に取り立てようとした時に批判する者がいました。
「呂端は大雑把な人物なので、宰相に取り立てては国が乱れます(呂端為人糊塗)」
しかし太宗は意見を変えず、「呂端は細かいことは苦手のようだが、ここ一番の大事を疎かにすることはない(端小事糊塗、大事不糊塗)」と批判した者を諭しました。
かくして呂端は至道元年(995年)に宰相となり、要点だけを押さえた政で賢臣と讃えられたのでした。
このエピソードは「呂端大事不糊塗(呂端は大事を外さない)」という故事成語として後世に伝わります。
周明さんがわざわざ見返りに宰相の侍医を要求する辺り一枚噛んでいるのかもしれません。

>宣孝は、あっという間の二日間であったと振り返ります。
宣孝公が発つ日が来ました。
「あっという間の二日間であった」と言う宣孝公に「父がいたらどんなに喜んだ事か」とまひろさんは言います。
宣孝公は「為時殿によろしく伝えてくれ」とまひろさんに言付けを頼みました。
そしてまひろさんは弁当を手渡します。
「ウニをもっと食べたかった」と言う宣孝公に、まひろさんは「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と食べ過ぎを戒めます。
宣孝公は不意に「まひろ、あの宋人が好きなのか?あいつと宋の国など行くなよ」と言います。
宣孝公はまひろさんが「宋に行きたい」と言っていたのを覚えていました。
そして「都に戻ってこい。わしの妻になれ」と求婚の言葉を告げたため、まひろさんは驚きました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

・MVP:朱仁聡?

>国際的な詐欺をやらかし始めたように思える朱仁聡。
>とはいえドラマでも描かれた通り、この時期の日本は法がゆるいため、甘い処置になるのだろうと思います。
>もしも三国若麻呂事件に関わった源光雅らが死刑にでもなれば嫌な予感がしたものの、そこまで苛烈な処置にはならないでしょう。
『この時期の日本は法がゆるい』とはどの様なところがゆるいのでしょうか。
22回では『あまりにスピード感に乏しく、無茶苦茶』とも言っており、何見氏は罪名や罪の重さに関わらず死罪にしろとでも言う様な口振りです。
越前で通事の三国さんが殺害され宋人である朱仁聡さんが容疑をかけられた件は『国の信用にかかわる一大事で異国人ゆえに裁きは難しい』案件であり、故実に詳しく事細かに日記に記述する実資卿も「我が国の法で異国の者を裁けるのであろうか」と対応を迷うほど判例が少ない案件だった様です。
陣定でも結論が出ず、議題を一旦取り下げ、律令などに明るい『明法博士』に文書(勘文)を調べたうえで法律的な見解を貰い、帝にお伺いを立て陣定で諮れと仰せならもう一度議論とします。
しかし、中宮定子さまの懐妊問題が浮上し、左大臣・道長卿は『越前のことは、越前で何とかせよ』と越前国司として為時公に全権委任します。
結局、周明さんが連れてきた証人により、真犯人が分かり朱さんは容疑が晴れました。
また越前を思うあまり、事件を利用し朱さんに容疑を擦り付け証人に口止めをした越前介・源光雅公は為時公の沙汰により年内の謹慎処分になりました。

『光る君へ』より
『光る君へ』より

史料でも朝廷で朱さんの罪名を検討している記述があり、『日本紀略』長徳二年十月六日条によれば、『大宋国商客』として朱さんを陣定で審議しており、また十一月八日条によれば、明法家に対して「大宋国商客」罪名を勘申(調査・答申)する事を命じて、明法博士・令宗允正(よしむねのただまさ)公が勘申した記述があります。(罪名は不明)
長徳三年十月二十八日には『若狭守源兼隆(澄)が「大宋国商人(客)」朱仁聡らに陵轢(侮り踏みにじる事)された』という記述があります。(『小右記』・『小記目録』、『百練抄』十一十月日条)
十一月十一日には、明法家に若狭守を陵轢した朱さんの罪名を勘申させています(『百練抄』)
史料に於いても陣定で罪状を検討し、分からなければ、専門家である明法家に罪状を調べてもらう様にしています。

『小右記』長徳三年十月二十八日条
『小記目録』長徳三年十月二十八日条

『大宝律令』のうち、刑法である『律』では、『八逆(はちぎゃく:律で定めた8つの重罪)』が大罪とされ、罪を犯した者に対して『五刑(ごけい)』と呼ばれる刑罰が与えられました。

>そういうゆるい民間交流で十分間に合っていたのがこの時代です。
>朱仁聡の言うことは当時の宋を踏まえれば無理があります。
何見氏は23回レビュー冒頭では『国同士で商いをして何が悪い?そこは考えたほうがよさそうです。日本史学習の欠点として、隣国である琉球や朝鮮、台湾の歴史把握が甘くなりがちだということが挙げられます。琉球を見ていると、朝貢貿易は悪くないとわかります。』『琉球の歴史を見ていくと、朝貢はむしろお得な制度であることが見えてきます。』と朝貢国として平安時代当時成立していない琉球王国を挙げ、朝貢貿易のみを推し日本の貿易の在り方を否定していましたが、『そういうゆるい民間交流で十分間に合っていたのがこの時代』『朱仁聡の言うことは当時の宋を踏まえれば無理』とは掌返しでしょうか。

>それでも周明が騙されてしまうのは、為時が語るように、朱仁聡には風格があるからなのか、はたまた周明が信じきっているからなのか。
周明さん役の松下さんは『朱仁聡は周明を医師として迎えてくれ、面倒をみてくれる“命の恩人”のような存在です』『捕らえられた朱を守りたいという強い衝動に駆られて証人を探し直訴に出るほど、とても 大切で心から尊敬する人』と言っています。

>今年の衣装は『清明上河図』を参照しているそうです。
>去年は横光三国志を参照したような衣装でしたから、その進歩は素晴らしいものがあります。
正保年間以後の成立との説がある『三河後風土記』によれば築山殿(家康公の正妻)が甲州浪人医師減敬と密会し、これを使者として武田勝頼のもとへ送って、信康が甲州方に味方するとした旨の条があり、家康公の嫡男信康公の正妻徳姫が父・織田信長公に送った十二箇条の文と合わせ、信長は家康に築山殿と信康の殺害を命じたとされる逸話があります。
『どうする家康』では甲州浪人医師減敬(唐人医師とも)を築山殿離間との勝頼公の意を汲んだ穴山梅雪公の扮装として描かれただけで本当の唐人医師ではなくそれらしく見えるというレベルではないでしょうか。

『どうする家康』より

・泣いて馬謖を斬るーー目的が大事?

泣いて馬謖を斬る

意訳:
中国の三国時代、蜀の諸葛孔明は日ごろ重用していた臣下の馬謖が命に従わず魏に大敗したために、泣いて斬罪に処した
『「蜀志」馬謖伝』の故事

規律を保つためには、たとえ愛する者であっても、違反者は厳しく処分することの例え。

小学館デジタル大辞泉

>なんて素晴らしいのでしょう。感動的だ。
>そういう意味で使っています。
>これがもし、諸葛亮がむしゃくしゃして馬謖を斬ったのであれば、全く褒められません。
>曹操は時折そういうことをやらかすから、最低の人間性だと罵倒されていますね。
>孫権も酔いに任せて部下を殺そうとして止められております。
>あくまで規律を守るための処断だからこそ、美談とされるのです。
また『パリピ孔明』の宣伝リンク貼って『光る君へ』と関係ない漢籍マウントを開陳して嫌いな作品を叩く暇があったらきちんと故事の出典を書いたらいかがでしょうか。

>四方を海で囲まれた日本には、どの時代にも遠い場所からやって来た人がいました。
>彼らはドラマの中で描かれてきたか? というと、消されてきたと思えます。
>戦国時代を扱うドラマでも倭寇はまず出てこない。
倭寇は東アジアで活動した倭人(日本人)を主体とした海賊です。
13~14世紀の前期倭寇、15世紀後半~16世紀の後期倭寇に分けられます。
何見氏のいう『戦国時代を扱うドラマ』の時代背景だと16世紀〜17世紀前半頃になります。
大航海時代全盛でヨーロッパから宣教師や商人が来航し南蛮貿易が盛んな時期に当たります。
日本でも戦国時代の争乱が次第に収まり、豊臣秀吉公は1588年、海賊停止令(海賊取締令)を出し倭寇の取り締まりを西国大名に命じます。
全盛期の倭寇を出したいのなら室町時代ではないでしょうか。(大河ドラマなら『太平記』から『花の乱』辺りです)

>朝ドラでも『まんぷく』では、ヒロインの夫が台湾出身華僑であるルーツを改変し、日本人という設定にしました。
(中略)
>ああすることで今、日本にいる華僑の方がどれだけ傷つくか、作る側は想定できなかったのか。そう呆れ果てたものです。
ルーツ改変というか朝ドラの前提として企業宣伝ができないのでモデルがいても実名が極力伏せられキャラ設定や関係性が改変されたフィクションになるのですが。
それが許せないのなら何故ドラマを見るのですか。
ノンフィクションだけ見ていればいいのでは。
フィクションドラマの設定が許せないからといって俳優さんや実在企業が実際に行った事や商品まで目の敵にするのは如何かと思います。

>『麒麟がくる』のしつこい駒叩きに、私は辟易としていました。
>歴史を語る上で政治史偏重、庶民軽視をするのはあまりに時代錯誤で、これからのグローバル・ヒストリー時代にこれはあまりにおかしい。
お駒ちゃんについては22回でも書いていますが。
視聴者の辛辣な意見として挙げると『活躍と影響が大きすぎる(回を重ねるごとに歴史上の重要な人物と会ったり、物語への影響が大きくなっていった)』『出番が多すぎる』など医療者としての役割よりも架空人物としての出演割合のバランスが不満の原因と思われます。
『オリキャラのエピソードを入れるぐらいなら、本筋を充実させてほしい』という事なのかもしれません。
足利義昭公が織田信長公から理不尽な要求を突きつけられた事をお駒ちゃんに吐露する場面では『町医者の助手が将軍と蛍観賞するなんてあり得なさすぎて興ざめする』との意見もありました。
グローバル・ヒストリー時代だのポリコレがーだのゴールポストをずらして喚き散らしているだけに過ぎません。

>まーちゃんがキュウリを持ってプールサイドでかじる場面がどれだけ愉快であろうが、あれだけ疑惑の詰まった東京オリンピック礼賛目的ならば、作品として論外です。
>公共放送をなんだと思っているのか。
決勝を前に緊張した前畑さんに「緊張したらカッパのまーちゃんがキュウリ食べてるのを思い浮かべて!」と励ましたところ、スタート直前妄想の産物でタバコがキュウリに変わったせいで緊張が解けた場面ですが何が論外なのか具体的に説明しましょう。
プロパガンダが理由なら一切の作品やスポーツ関連番組を観るのを辞めてレビューも書かない方が良いでしょう。
熱狂し楽しむ人に水を差す気なら余計な御世話です。

『どうする家康』より

>『青天を衝け』は、紙幣の顔にするにはあまりにも問題が多い渋沢栄一を、ロンダリングしたかったように見えます。
渋沢さんが気に入らなくて一万円札に文句を付けるなら一切お金を使わなければ見なくて済むのではないですか。
貴方が要らないお札が欲しい人はいると思います。

>瀬名の悪女説は江戸時代以降の創作だのなんだの、プロデューサーも脚本家も、口裏を合わせたように同じ動機を語っていてむしろ不信感が募りました。
瀬名さまの悪女説は江戸時代以降の創作だが色々な通説を総合して結果武田との内通の疑いで死を選ぶ事になったという設定なのに、作品をともに作るプロデューサーと脚本家の意見がバラバラでは困るのではないですか。

>何を雄弁に語るかよりも、何を語っていないのか、そこを探ることが重要なときもあり、結局、文春砲がその真の目的を明かしていたのではないでしょうか。
未だに全く信憑性のない文春砲を頑なに信じ込んでいるんですね。
得意の陰謀論でしょうか。

>昨年の大河については、いまだに大河主演をキャリアアップに使ったという趣旨の記事が出てきます。
>公私混同に慣れきっていると、感覚が麻痺するのでしょうか。

俳優さんが過去に出演した作品を大事にして出演歴に入れたりキャリアとして活用している事の何がおかしいでしょうか。
一般人でも履歴書に取得資格や職歴を書くのと同じではないですか。
それに松本さんは個人ではSTARTO社から独立して、嵐5人での会社を設立しているのですがいつまで文春砲を叩き棒に誹謗中傷するのでしょうか。
事務所に所属していれば私怨で叩き、独立すれば不義理だの公私混同だの。
アイドルや俳優にも職業選択の自由はあり何見氏にとやかく言われる筋合いはありません。


※何かを見た氏は貼っておりませんでしたが、今年もNHKにお礼のメールサイトのリンクを貼っておきます。ファンの皆様で応援の言葉や温かい感想を送ってみてはいかがでしょうか?


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