音源制作記 作曲はフライフィッシング

前回書いたのは
作曲にはどうしても意識的には行えない次元があるというか、
自力を超えたところがあるという話でもあった。

それはこういうことだ、
既に誕生した曲であれば、それを様々な概念の単位に分解することが出来る、
つまり分析して既知の理屈の中でどのカテゴリーに入るのか判断し、そのカテゴリーの中での名前でそれを呼ぶ。

もっと簡単に言えないのかな?

それは例えば、フォービート、ランニングベース、シンバルレガート、ナインスコード、逆循環などなど、、
そういう風に曲の構成要素を分析し分解することかな

もっとある気がするけれど、上手く言葉に出来ない、思いついたらまた書こう。

問題は曲を抽象的なパーツに分解することは出来ても逆にそれらを寄せ集めても曲は作れないということにある。

何故か?
それは、それではその曲をその曲たらしめている、内的な自律性、運動性(あーもっと分かり易い言葉はないのか?)がそこに無いからだ。

それは前回も書いたが、自ずと生まれてくるものだからだ、
よく言う様に創作の現場でアーティストと呼ばれる人が出来るのは助産婦の役だけだからだ。

しかし僕は思った、我々は助産婦というよりはむしろ釣り人に似ているのではないかと、
魚がこの釣り竿の先にぶら下げられている糸の、またその先の沙蚕に食いつくかどうかは、当の魚も含めてその瞬間まで誰も知らない、

我々は確かにしばしば魚の全く居ない水辺に釣り糸を垂れてるいるような不安に襲われる、
しかし魚は釣れるものだ、
そのためには最低でも釣り人は釣り場に行き、釣り竿を取り出し仕掛けを考えて、釣り糸を垂らさなくてはいけない。

でも、釣り糸を垂らした後、目を瞑り、神仙の境地に浸っているようでは魚は釣れない、釣れる人もいるのだろうが僕はそうではない

要はフライフィッシングなのだ、
常に忙しく魚を探して、居そうな所にルアーを投げ入れたら、その後は魚が餌だと勘違いするように水に落ちた小さな羽虫の動きをルアーで真似る、
手元に引き寄せまた投げる

結構忙しい、やることは多い。

でも、結局このゲームは魚頼りのゲームなのだ、肝心のお魚様が、天命に従ってか、何かの間違いかで釣り針を加えてくれないと釣り上げるというファイトは発生しない、
だからイライラしても仕方ないし、
自分の不運や、非才を嘆いていても一向に構わないが、その暇があるなら
もう一回釣り糸を投げ入れた方が釣れる確率は上がる

魚はいずれは釣れる今日明日釣れなくても1週間後、1ヶ月後、1年後には釣れる

釣果に文句を言うのはお門違いというものだろう、それは出逢いだし、運命はそれを受け入れる人にはいつも素敵なものになり得ると思うから



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?