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都会で捨て、山で拾う

「就職は関東にしたい。」という学生がいる。どういうことかと想像する。私の解釈は以下の通り。
・今まで(地方の環境)と違う
・働きたい会社がある
・情報の海
・芸能人がいる
こんなところだろう。
他にもあるだろうが、次の一言でほとんど収まる。

「ヒト、モノ、カネ、サービスに憧れる」

ヒト、モノ、カネ、サービスがデジタルになりつつある。
考え直してみてほしい。
ヒト…SNS、マッチングアプリ
モノ…アマゾン、フリマアプリ
カネ…ネットバンキング、株取引
サービス…動画サイト、タスク管理、学習

私たちの生活全てが、お手持ちのスマートフォンで完結しているのに気づいているだろうか?


違和感なく「確かにそうだ」と思った方は、もうデジタルに慣れてしまっている。
「関東を夢見る学生」ほど、この具体例たちに共感するのではないだろうか?
私が言いたいのは、本当に「完結」しているか?ということだ。

デジタルは捨象である。

どういうことか。
デジタルの起源は科学であることは誰もが納得するだろう。
科学とはなにか。
それは、数学という言葉で世界を表現することである。
数学で表現するとはなにか。
あらゆる情報を削りとり、数のみに研磨したということである。

恩恵がたくさんあった。
いつも同じことが起きるようになった。
わかりやすく伝えられるようになった。
無限の現象から精選し、研究できるようになった。

都会ほど、便利なデジタル化がおきる。
ヒト、モノ、カネ、サービスを便利にすることは、
毎回同じ事が起き(再現性)、わかりやすくなる(伝達可能性)ことだ。
再現性と伝達可能性とは、科学研究で使われる言葉だ。

それは本当に良いことなのだろうか。

山に入ると、同じことは起きず、常に複雑である。
5分前と臭いが違う。場所によって日差しが違う。地面の柔らかさが違う。高度によって気候が違う。
ヒトとしての生活とは、本来、未知への対応の繰り返しだ。

私はボーイスカウトに所属したことがある。
月に一度キャンプがある。
何故月一でキャンプがあったか、やっと分かってきた。
意図されていたかは別として。

毎回、ほぼ同じプログラムでキャンプが進む。
朝6時起床、朝会、朝ご飯、午前の活動、
昼ご飯、午後の活動、
夕べの会、夜ごはん、21時就寝
もっと言えば、プログラム「だけ」が同じだ。

最も印象に残っているのは、気候条件や環境の違いだ。
プログラムは同じなのに、天気と場所で苦しさが違う。
特に台風接近中の夏キャンプを思い出す。
既成のテントやかまどを使わないクラフトキャンプがテーマだったように記憶する。
自分達で寝床と調理場を確保する。
夜、台風が接近しているために大雨が降った。
あろうことか、自分達で作ったブルーシートとロープだけの空間が寝床だ。
池ができた。
外にでればもっと濡れる。
もうテントを作り直す体力もない。
大人リーダーは別の既成テントで寝ている。
ではどうしたか?

何もしなかった。
いや心が変わったというべきか。
「濡れて」もいいと思った。

夏で夜は20℃以上あったこと。
タオルやビニールを駆使すれば、濡れるが浸水するほどではなかったこと。
あと3時間で朝だったこと。

これらのことから、環境そのものに心と身体を順応させたのである。
最低限生きていける環境を整備して、あとは心身の生命力に委ねたのである。
小6の出来事だ。

何か大切なモノを拾ったように思う。
便利でない、むしろ厳しい場所に身を置くことで、人間本来の生きる力を思い出したのである。

便利な都会では、そういうアナログ的な経験は捨象される。
便利は排除だ。

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