8000キロ向こうの戦争、かたや圧倒的成長

ロシアが隣国に堂々侵攻するという信じられない事態が始まって3ヶ月が経とうとしている。


あまりのショックに脳が処理落ちし、2月、3月の初頭は本当に何も手に付かない生活を送っていた。3月も終わりに近づいて脳がようやく再起動し、とにかく状況を把握するためにまともな専門家が書いた記事や本を読んだり、なんかロシア人のことが分かりそうな文学を読んでみたりしていた。別に私がこんなことをしたからといってウクライナの人の命が助かるわけもなく、こうした行動の全ては起こっていることを理解するための補助線を確保し、混乱した精神状態をなんとかしたいというそれだけの動機から発していた。


4月以降。社会人生活が始まり、毎日疲れ果てて本を読む暇もなければ、戦況や情勢について割と詳細に伝えてくれる外国語の諸ニュースをちゃんと読む暇もない。ニュースでもウクライナ侵攻の扱いは少しづつではあるが小さくなってきているのを感じる。
職場では、覚えなければならない大量の情報とビジネス的atitudeを浴びせられており、それらの奔流が私の意識の大半を占めている。

それらの変化と同時に、私の鬱屈とした気持ちは落ち着き、それに伴って不定愁訴がなくなるなど体調の上向きが止まらない。
しかし、こうした全てを私は良いことだとは思えない。
などと書くととても偽善的な感じがする。実際、私がヒーとか言いながら鬱っぽくなって寝込んでいようが、ゲラゲラ笑いながら遊んでいようが、戦況を左右するわけではない。別に会社の人も積極的に戦争の話をしないし、出てきても物価高とかそういう話である(だからといって現地の悲惨について考えてないわけではなく、みんなあえて話したがらない雰囲気もある)。
「日常」というもののありがたさ、尊さと残酷さはこういうところにあるのかもしれない。

でも、私が新卒研修で「成長とは」について熱い語りを聞いているとき、受電対応にビビっているとき、8000キロ向こうでは自分と変わらない歳の人が両足と指を地雷でぶっ飛ばされている。
なんてことを言うまでもなく、別にロシアがウクライナに侵攻するはるか前からずっと、地球上のどこかで毎日誰かが爆弾で身体をぶっ飛ばされている。

これを考えたとき、「日常」のヴェールもぶっ飛ぶ。自分がこれまでやってきたこと全て、これからやろうとする仕事やましてや仕事を通した「圧倒的成長」なんて、滑稽なおままごとにしか見えなくなってくる。

でも、生きてるって本質的にこういうことかもしれず、つまりバンプの『カルマ』はすごい歌だったんだなぁ(脱線)。

こういうこと考えても仕方ないし鬱になるだけやけど、考えるのをやめたら死んでるのと同じって感じするしやめたくない。しかし、いつまで考え続けられるかなぁ。

あるいは、私がみんな考えてないやんと思っているだけで実は、みんな何か折り合いをつけて生活を送っているのだろうか。
まだよくわからん。いつかわかる日が来るかしら。


サポートしていただけると、バイト収入が例年の1/3になった私が喜びます。気が向きましたら、よろしくお願いします。