誹謗中傷

「誹謗中傷はやめよう」という正義がどんな場合でも最優先なのだろうかと疑ってしまうくらいやるせない事件は稀に起きてしまう。

もちろん誹謗中傷はどんな場合であっても好ましいことでない。

それと同時に「誹謗中傷と批判は違う」という考えも広く受け入れられていて、これも正しい。「死ね」はダメだけど「こうこうこういう理由で私はあなたのことが嫌いです」はOK。

でもどっちが本当に悪質なのか。いや悪質なのは前者だけど、「理に適った批判」という安全圏から可能な限り相手を否定する言葉を練って浴びせる後者も受け取る側からしたら大差ないのではという気もする。散々否定された挙句「これは誹謗中傷ではなく批判なので受け入れる義務がある」みたいな顔をされるのだから。

そもそもいわゆる「誹謗中傷」に心を痛めない人は「批判」と呼ばれるものをひとつの意見として処理する強さがあるし、逆に誹謗中傷に苦しむ人は理路整然とした「批判」にも同じくらい苦しむのではないかと思う。表面上は「誹謗中傷」と「批判」は全く質の違うものであっても、どれだけ対象者の心をえぐったかはむしろ後者の方が大きい場合だって少なくないかもしれない。

なんて考えが浮かんだのは昨日今日のことで、なんなら自分はずっと「嫌いなものに対して嫌いと言う権利もある」と思ってきたし今もそう思う。

だから批判がダメだとか綺麗事を論じるつもりはないけれど、「誹謗中傷がなぜ悪なのか」という地点から本質を考えていくと批判も大して変わらないというか、ただ法的措置の対象になる可能性があるかないかというだけで、両者の線引きは攻撃(誹謗中傷/批判)する側の安全圏を示すラインでしかないんだなということは自分の中では新たな発見だったので覚えておきたい。

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