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incident ①

その当時は、外側からナニカがやってきて、なにもかも奪っていくのだと思っていた。
大海原にひとりポツンと放り出され、不安で不安で、不安から船や橋に辿り着こうと必死に泳いでいた。
辿り着いたと思ったら、また流される。

何度も流されて、今は気づいた。
流されていけばよいのだ。
ゆるーい河を、景色を楽しみながら流されてりゃいいじゃん、と、何度も流されたからこそ気づいたのだ。


その一連の流れは、まったく外側からやってきた。
しつこいようだか、当時の認識である。


母との確執は、実の親子でもあり、持って生まれたカルマのようなもので、他人事ではない自分事である。
なんでこんな家庭に生まれちゃったんだよ〜と思いつつも、どこかで自分で選んで果たすべき事、と捉えていた。
家族や血縁、自分の出自は、存在感に関わることなので、長きにわたって向き合わざるを得ない。

しかしそれ以外のトラブルについては、割と冷静に見ることができるのだ。
たとえは、イジメに合うとか、職場にすごく嫌なひとがいるとか。


相手は所詮他人だ。何を気を使うことなどあろうか、無視しようが、やり返そうが、離れようが、自由だ。
そう思えは、思いつめることもなく対処できるのである。
その嫌なヤツに向かって、オマエのいない世界などゴマンとあるのじゃ、私は自由にその世界を行き来できるのだよ、フハハ〜と、脳内で呟くのだ。そして、オマエのそのやり方で、真に幸せになるというならやっておればよろしい。但し私の世界からは遠く離れた何処かでな。
後は、自分がやるべきことをやって、ひたすらご機嫌さんで過ごすよう努力していれば、大概相手の方で自滅するか、態度が変わるか、いつの間にか消えていなくなるのだ。

主導権が自分にあると思えるかどうかである。



T氏は、何というか強烈なキャラクターで、ミスター強気、自画自賛、我が道を行く、そして独特の感性があって、それは仕事に活かされていたが、組織には向かない。個人事業主向きであり、若い頃から個人事業主だった。

取引先には同じ個人事業主や、比較的大きな会社もあった。様々な業種の人が出入りしていた。
会社でまたは社会で、ヘンコ、関西弁で変人、ちょっと変わっているプラス変わっていることに頑固というニュアンスも含むと思っていただいてよいだろうか、ヘンコな方々が、引き寄せられるように訪れてはお互いにお前は変わり者だという。

ある大きな会社のそこそこの役職の人がいて、その人が言うには、ヘンコはヘンコを呼ぶのだそうだ。

バブル最盛期は、シルバーアクセサリーがよく売れていた。なのでその製造業に没頭していた。私が入ったのもその頃だ。
作っても作っても売れていくので、作業机の上には、いつも内側がビロード張りの木箱が山積みだった。
サイズ出し、ヤスリがけ、リューターがけ、ロー付、バフがけと、各工程別に箱の中に並んでいる。
同じ作業をずっと続けるのが苦手な私には、それは好都合で、少ないロットで、今サイズ出しをしていたかと思うと、次は別の物のリューターがけをし、それをバレルにまわしているあいだに、別のロー付、それを酸洗いしている間に、また別の、、、というやり方のほうが効率が上がるのだ。
もちろん集中力を要するので、2時間おきに休憩する。
この休憩タイムに、ネコと遊んだり、時にはアトリエの外に出て近所の犬や、ネコや、時にはニワトリとか見に行くのだ。これは奥さんに誘われるのである。
動物だけでなく、季節の花や木を見に行くこともある。
日が暮れる頃から集中力が増し、遅い時間までグァーッと仕事をすることが多かった。

サライイネスさんの、「誰も寝てはならぬ」という漫画があるが、あんな世界である。
ちなみに、同じ作家の漫画の「大阪豆ごはん」の世界感も通じるものがあって、当時奥さんと私で愛読していた。


入った頃にいた、先輩のユリさんは一年程でいなくなり、しばらくはT氏と私で作業を回していた。
忙しい時は奥さんも手伝った。
それでも回らなくなったので、以前アトリエで働いていた人で、結婚してやめたのだが子供が少し手がかからなくなったからと、十何年ぶりに復帰して来てもらうことになった。

この人が、手も口も早い人で、最初は年下の私に対抗意識を燃やしておられたが、余りの私のマイペースさに、なんか毒気を抜かれたのだうか。また、子供が学校から帰る時間には終わらないといけないので、残った仕事を私に託すことになり、対抗しているよりも、協力した方がよい、ということになったのか、程なくして仲良くなった。
その人が、私の目の前の既に山積みの木箱の上に、さらに自分の木箱を置きながら、気の毒そうに、「こんなん、いつ終わるんか考えたら頭おかしくなりそうにならへん?」と言う。
私は、コツコツやってたらいつかは必ず終わるよ〜、明けない夜明けはないんやで〜とニヤリと笑って答えるのだ。
短いスパンでは飽き性なのだが、なぜか長いスパンでは粘り強いのだ。


忙しかったり、少し暇だったりを繰り返した。
シルバーアクセサリーは定期的に流行り廃りを繰り返すので、売れ行きが悪い暇なときに、新しいデザインを考えたり、新たな道を模索するために市場調査などをするのだ。
新シリーズの商品を出すと、またしばらく忙しくなる。
そんな風に毎日が、ずっと続くものだとばかり思っていた。


ところがバブルがはじけた後、商品の動きがパタリと止まった。
目先を変えたものを出してしばらくは売れても、すぐに止まってしまう。


モノは売れなくなったが、プロデュース的な仕事や、デザインの仕事は動いていた。
T氏はもともとそのような仕事をしていたこともあり、流れがそちらへ傾いた。そして個人では大きな取引先に相手にしてもらえないからと、アトリエとは別にデザイン会社を立ち上げたのだ。

しばらくは工房でひとり、細々と修理やサイズ直し、少ない発注に応えていた。


そのうちにシルバーアクセサリーではなく、イベントグッズやマスコットキャラクターの原型をワックスで作らされるようになった。これがまた、なんとなく器用なもので、できてしまうのが返って良くないのだ。

それでもまだ、物作りの作業なら良かった。
あるイベントの、グッズ販売のトータルプロデュースの仕事を、デザイン事務所の方でやっていたのだが、売れ行きが芳しくなく、唯一記念コインだけが売れているという。
なので、これをイベント期間中にできる限り売りたい、とT氏が言う。
最初はコインを仕入先からイベント会場まで、バイクで届けたりしていた。なぜかバイク便みたいになっていたのだ。

その記念コインは打刻機で日付と名前を打ち込めるのだが、これに時間が取られると売り上げに響く。なのでバイトがついて、売り手が入力していた。ところがこのバイトの手が足りない、あなた、仕事がないのだから行ってくれないかと、言われたのだ。

何が悲しくて、今更学生バイトのようなことをと思ったが、確かに仕事はないに等しい、仕方がない。
やってみると、今までのアルバイト列伝経験があるものだから、そこらへんのバイトクルーより客さばきができてしまうのだ。
お役に立てて何よりなのだが、イベント会場の裏の休憩室で、学生に混じって休憩していると、何してるんだろう?としみじみと惨めな気分が沸いてくる。


けれども乗った船が揺られるに任せ、自分から船を降りることは、まったく考えていなかった。しがみついているつもりもなかったが、降りて自分の力で泳ぐという発想が全くなかった。くる波くる波に振り落とされないように対処するので精一杯だったのだ。


イベントは夏限りで終了した。
それからしばらくして、アトリエを改装して、工房スペースを半分にして半分をアンテナショップにする、とT氏が言い出した。
その頃、一番下の娘ちゃんが学校を卒業し、家の仕事を手伝いたいを言っていた。真ん中の息子くんもクリエイターで、息子くんの友人関係も若きクリエイターが多かった。
後で伝え聞いた話では、T氏は子供達にクリエイターとして活動する場を残したかったのだということだった。

しかし職人の私としては、工房スペースが削られることは、身が削られるように辛かった。

実は、デザイン事務所の方も大赤字で、先のイベントが大打撃となっていたのだった。
アトリエだけは残しておきたい、という気持ちがあったのだろうか。

息子くんの友人関係を駆使して、自分たちでできるところは手作りで、娘ちゃん好みの可愛らしいショップ兼アトリエができたのだった。

できてみると、直接エンドユーザーとやりとりできるし、オーダーメイドの受注などは私が対応することになり、案外面白かった。職人に戻れたのだから、良しとするか、、、。そんな風に落ち着きを取り戻した頃だった。

衝撃の事件が起きた。

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