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古都と仏具 ㊀

関西にお住いの方なら、わかると思うのだが。
関西と一口に言っても、その土地柄と気質は異なるものなのである。
大阪、神戸、京都で全く違う。
同じ古都でも京都と奈良は違う。
さらに例えば大阪でもキタとミナミは違うし、周辺の摂津、河内、泉州も違う。言葉も違う。泉州弁、河内弁という言葉があるぐらいだ。
ええ、関西以外の方は、驚くところです、ここ。

それぞれの気質を語ると、何やら誰かを敵に回してしまいそうなので敢えていたしませんが、子供の頃から転勤家族で鍛えた私でも、ああこんなに違うのねと実感したのが、京都で過ごした2年間でした。ま、ちょっと特殊な環境だったせいかもしれません、と言い訳しておきましょう。


さて、求人で見つけたのは、仏具製作の工場だった。販売もしていたけれど、そちらは場所が離れていて、私は一度も訪れたことはない。

京都市内にある工場に面接に行くと、同じ敷地内に和風の邸宅と工場が共存していた。
邸宅の方は、社長宅であった。
社長さんはまだ60歳そこそこだったようだが、体を悪くして実質引退状態で、工場の方は息子にあたる副社長が切り盛りしていた。
お店の方は、社長の弟にあたる専務が切り盛りしており、後に副社長派と専務派で勢力争いしていることを知った。


工場の方は、that's工場だった。


仏具製作の伝統工芸な部分は完全分業制である。木工は木地屋さん、金物は彫り、透かし、鍍金などがある。

その工場では、そのような伝統工芸的な工程ではなく、レーザーで透かしをいれたり、プレスで文様をいれたり、旋盤で削り出したパーツを組み立てて、寺院用の仏具や照明、香炉のお屋根などを製作していたのだ。
在家用の仏具もないわけではなかったが、主に寺院向けの仏具を扱っていた。

昔はたくさんの専門の職人さんを抱えていたそうだが、高齢化と後継者不足で、機械化できるものは工場で作るようになったのだ。

京都の仏具の職人さんの世界は徒弟制分業制に加えて、職人さんの出自も問われることがある。
後継者不足問題がなければ、私のような者が入り込む隙などなかったはずだ。
年齢も女性であることも府外の人間であることも、大きな壁だったのだから。


それでも特殊な職人さんが現役で残っていて、工場の一角に彼らはいた。

けいす、というものがある。

仏壇で、チーンと鳴らすお鈴というものがあるが、あれを大きくしたようなものである。
スピリチュアルブームで知られるようになった、シンギングボウルがそれに近いだろうか。
シンギングボウルよりも重圧な音色である。

これは、なんと大きな金属の板から叩き出してあのお鉢のカタチにするのである。
ナマシといって火をいれて柔らかくし、柔らかくとは言ってもぐにゃぐにゃになるわけではない、ちょっと加工しやすくなる程度だ。
ナマしては叩き、ナマしては叩いて、平面状のものから、丸い鉢状にしていくのだ。

これが並大抵ではない。

径は一尺三寸などと表すのだが、わかりやすく言うと、小さいもので直径30〜40㎝、大きいものだと1m以上になる。
大きいものになると、最初の板の厚みは4〜5㎝はあるのだ。
重さ、大きさと共に、叩いた時の音が凄い。特にお碗状になってくると音が反響する。なので、厚いゴムのテントの中で作業するのだ。

これを80代のおじいちゃんが1人と90代のおじいちゃんが1人で、やっておられたのだ。
さすがに、90代の方は小さなものしか作っていなかったが、もう1人はまだまだ現役だった。
なんでも当時で、全国で5人しか職人が残っておらず、そのうちの2人だと言う。

お二人ともキョーレツなキャラクターであった。
大きな音に晒されるので、けいす職人は耳がやられる。耳が遠いのでか、性格なのか、人の話は聞かない。
そして、英雄イロを好むというが、職人イロを好むのはなぜだろう?
お一人は祇園で芸者遊び、もう1人はストリップ劇場の超常連なのであった。もちろんその当時の年齢で、こちらも現役である。


その工場に営業でも事務でもなく、職人として働きにきた女性は、私が初めてだったのである。
若い副社長は、旧態然とした工場に新しい風を入れたかったのだと思う。
実は同時期に、自動車製造工場で働いていたまだ若い男の子も採用していた。
細かい手作業は私に、力のいる仕事は彼に、
私は女性で、彼は若さで、採用されたらしい。

私の方が大阪からの引越しもせねばならず、採用から初出勤までに少し間があったのだが、女性が来る!と工場中が大騒ぎとなり、夏は暑く冬は寒い工場の壁に断熱材を入れたり、掃除をしたり、更衣室を分けたりしてくれたのだという。

若い彼、アツシ君というのだが、彼が来て初めての仕事は、その断熱材の工事だったらしい。仏具を作るつもりで来たら、来る日も来る日も工事仕事で、なんだかなぁと思ったらしい。
私より5つぐらい年下だったが、同じ新参者同士で話もしやすく、一番安心して話ができる相手だった。

と言うのも、京都特有の遠回しな物言いや、面と向かってる時とそうでない時の言動の差が、つまり表裏がありすぎる世界に、誰を信じていいのか分からなくなってしまったのだ。
アツシ君は西陣のど真ん中の家の子だったが、若さゆえか、体育会系の男気のあるタイプだったゆえか、話しやすかったのだ。
時々、遠回しを近回しに翻訳してもらったり、京都人独特の考え方を解説してもらったりもして、随分助けられたのだ。


他にもキャラクターの強い面々が揃っていた。
個人経営のところで家内手工芸的な中で仕事をしてきたので、会社組織に正社員で働くのは初めてだった。なんとこの時初めて厚生保険に入ったのだ。
29歳になろうとしていた。


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