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生まれた街

生まれた街は、阪神間の酒造で知られた街である。路地の突き当たりは、その名も阪神荘というアパートで共同玄関で靴を脱いで上がる下宿荘のようなアパートだった。各部屋も一間しかなかったのではないか?そこにはみっちゃんという男の子が、兄と同い年で、お父さんお母さん中学生ぐらいのお兄ちゃんと暮らしていた。あんな狭い部屋で、どうやって寝るんだろうと不思議だった。

もう一人カズくんという男の子が、やはり兄と同い年で、おばあちゃんと二人暮らしだった。お父さんお母さんがどうしていないのかは知らない。彼はヤンチャで、よく兄を泣かしていた。私は阪神荘の玄関口へ、おばあちゃんに言いつけに行った。兄はケンカに弱く、私の方が口が達者で意外と強かったのである、家の外では。

もう一人カズヤくんという男の子がいて、わたしより一つ下で、路地の奥の比較的新しい家に住んでいた。当時その界隈では珍しく内風呂があり(そう、お風呂がない家がほとんどで銭湯に通っていたのだ)私の目には、お金持ちの家だった。珍しい玩具があったり、ポンポン菓子がおやつの主流だった我が家からから見れば、大変高級なおやつが出たり、家にはお父さんの書斎と呼ばれるコーナーまであった。ビニール製のパンチしても起き上がってくるボーリングのピンをでっかくしたヤツ(あれ、なんていうんだろう?当時流行っていた)に跨り、バスタオルをマントにして、月光仮面の歌を歌いながら、月光仮面ごっこに興じたものだ。お父さんは大変教育パパさんで、後にカズヤくんは大学院まで進学したものの、就職した途端にウツになり、引きこもりくんになったと母から聞いた。大変ねぇと他人事のように、しかし何となくザマアミロてきなニュアンスも含んでいて、嫌な気持ちがしたものだった。カズヤくんは乱暴なところがなくとても優しい男の子だった。まだ2歳ぐらいの弟のほうがヤンチャで、弟とケンカして泣かされていた。

我が家は阪神荘から一軒か二軒手前の今で言うテラスハウスの様な隣とくっついた家だった。台所は土間で、和室が二間、トイレはボットンだった。くっついた隣と反対側の隣は細い路地になっていて、隣の勝手口と我が家の玄関が向かい合っていた。路地の入り口には格子戸があった。

くっついてない方の隣には、もう大人の娘さんと年老いた両親が暮らしていた。穏やかな人たちで、母にヒステリックに叱られた後に優しく声をかけてもらったりした。

赤ちゃんの頃、日向ぼっこさせるのに、洗濯カゴ、今時の縦長タイプではなくて、温泉などにある横広タイプのものに寝かされて、家の前に置いておかれたものである。すぐ近くに親がいたのかどうか、いや、割と放っておかれたような気がする。広い道路からは路地で入り込んでいたので、車も入ってこないし、路地に面した各家の中庭的なスペースだったから、子供はそこで放ったらかしにされていたものである。

ビー玉やべったん、地面に丸く穴を何個も掘って泥団子を入れてタコ焼き屋さんごっこをしたり、三輪車をひっくり返して焼き芋屋さん(なぜに焼き芋屋さんなのかはよく覚えていない)ごっこをしたりした。

近くの酒造工場に忍び込んで王冠を拾い集めたり、神社の池にうどんの切れ端をいれた牛乳瓶を垂らしてエビ釣りをしたり、兄と兄の友達にくっついて遊んでいた。

家の外は楽しい冒険的な子供の世界が広がっていた。子供だけで遊ぶ時間が圧倒的に長く、大人の干渉のない世界がしっかりと存在していたように思う。この点は放ったらかしにしていただいてありがたかったのだ。


路地から出たら、その道路の突き当たりが小学校だった。小学校の手前には文房具屋さん兼駄菓子屋さんがあった。黒いセルロイドの眼鏡をかけた棟方志功のような風貌のおじさんが切り盛りしていた。

当時は台風が来ると、すぐに床下浸水したものである。小学校までの道が冠水して、今から考えればそんな日は休校に決まっているだろうに、裸足で服を捲り上げてざぶざぶ歩いて行き、あ、休みだぁとざぶざぶ帰って来たりした。ただ単に滅多に見られない異空間を堪能したかっただけかもしれない。

誰にどこで聞いた話かは忘れた。耳から聞いて想像した映像があまりにも印象的で覚えている。その文房具屋のおじさんが、台風にもかかわらずまだそれほど悪天候でもなかったので、出かけていったらしい。私の想像だが、飲みに行ったのではないだろうか?いかにも呑助さんの風貌だったし。いや、年老いた母親の様子を見に行ったんだっけ?子供が片耳に聞いた話なのでその辺は定かでない。

ともあれ、彼は出かけた。ところが帰る段になって暴風雨が吹き荒れた。阪神間に直撃してかなりの被害を出した大きな台風だった。で、傘をさそうにもさせず、なぜだかビール?の缶があったのでそれを何本かピラミッド型にくっつけて、それを頭に括り付けて帰って来たのだそうである。そんな話を母親が近所の人と井戸端会議をしていたのを子供ながらに耳にしたのであろう。おじさんの風貌とわたしの中の想像がマッチしてあまりにも哀愁漂う滑稽さが、強烈に脳裏に焼き付いているのである。


そんな街も、転勤で6歳か7歳の頃に去ってしまい、わたしの記憶には家の前の小さな路地とそこから小学校までの道と、酒造工場と神社ぐらいの、小さなジオラマのような世界の記憶が残るのみである。


阪神荘と路地の周辺は後にマンションが建ち、酒造工場も子供が忍び込むようなのんびりしたものはなくなり、それから阪神大震災があって駅前辺りは再開発され、唯一、神社だけが昔の面影を残している。




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