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関東平野

父の転勤により、生まれて初めて引越しをした。関西から関東へ、当時は引越し専門業者もなく、大きな荷物は貨物列車で運んだと聞いた。子供にもわかるような説明も何もなく、学校から早く帰って来なさいと言われ、大して気にもせずいつも通りにゆるゆる帰ると、家の中はダンボールの山で、そして叱られた。

鹿島臨海工業地帯近くの広々とした平野の中の社宅だった。何もかもが異世界だった。何しろ当時は電気のヘルツも違ったのである。

一般道路から、未舗装の松の木が立ち並ぶ車一台がやっと通る細道を辿ると、田んぼと空き地に囲まれた宅地化されたスペースに、小さな家が5軒建っていた。それぞれの家は特に区切りがなく、子供が安全に遊びまわるには充分な広さだった。5軒分の敷地はフェンスと生け垣で囲まれ、フェンスの向こうはススキの生えた野原のような空き地のようなスペースが広がっていた。秋にはススキにビッシリと毛虫がついていた。裏庭にはキャベツが植えられ、青虫がびっしりついていた。青虫をエサに地蜂が地面に穴を掘っていた。花壇のクチナシに付いたオオスカシバの卵や幼虫を割り箸で取るのは私の仕事だった。今でもそうなのだが、虫は苦手ではない。蟻の行列をいつまでも飽きもせず眺めているタイプの子だったのだ。

都会から田舎へ行って、虫は大丈夫だったが、夜の暗さは怖かった。その松林の細道が街灯もなく日が落ちると本当に真っ暗で、手探るように歩かねばならず、夜とはこんなに暗いものかと心底驚いたものである。

言葉も異世界だった。地元の人はいわゆるズーズー弁で、知らない方言ばかりか、標準語を喋っていても聞き取り辛く、全校集会でマイクを通されると、全く何を言っているのか分からなかった。工業地帯への転勤組の子たちが3割ほどいて、私が転校してくる少し前に埼玉から来た子に通訳してもらっていた。その子は初めての友達らしい、そして女の子の友達になった。

転校の初日、母親に連れられて校長先生に会い、それから教室へ行き、母は帰って行った。少ししたところでちょっかいをかけてきた男子がいた。こいつが一番強いヤツか?いっちょかましとくか、と思ったかどうか覚えていないが、蹴りを入れたところでなぜか行ったはずの母親が戻ってきた。家では一番弱い役に甘んじていたので、学校で好き放題している私は内緒だったので、かなり焦ったのは覚えている。しかし以降いじめられることもなく、転校したら最初にかましておくと良いのだと、学習してしまったのである。

空き地の向こうにホテルがポツンと建っていた。そのホテルの一階に本屋さんがあった。私が初めて自分の意思でお小遣いを貯めて買っていた漫画がある。そう、一世を風靡した「ベルサイユのばら」である。毛虫だらけのススキ野原を突っ切るとそのホテルの敷地にポンと出るのだが、小学3年生ぐらいの私は、一人で漫画を買いに行っていた。ある時雨が降っていて、本屋さんから出て傘を差し、一歩踏み出したところで、所謂ビル風だろう突風に飛ばされ、6〜7メートルの距離をすっ飛んで地面に叩きつけられたのである。傘はひっくり返り、お尻はパンツまでびしょ濡れ、買ったばかりの漫画も同様、泣きながら家に帰った。

後年、我が娘が幼稚園ぐらいの時に、傘を持ってわざわざ高いところへよじ登るのを、この時の逸話を何度も語り、傘ではお空は飛べないの、ただ落っこちてすんごく痛いんだよと、信憑性を持って説得するために、起きたのだろう。


とにかくだだっ広い土地で、交通の便も悪く、我が家が初めて自家用車を持ったのは、この頃である。週末ごとに関東近郊の名所や時には東京へも連れて行ってもらった。

土地勘もなく、慣れない環境で母親は気苦労があったのか、よく父とケンカしていた。家事ストライキを起こして、父がご飯の仕度をしてくれたこともあった。兄は勉強は出来たが元来大人しく、当時の印象は薄い。私はというと、案外そこでの生活を謳歌していたような気がする。

冬には霜柱をサクサク踏みながら松の木林の小道を歩き、夏には盛大に泥んこ遊びをし、学校でも走り回っていた。そういえばこの頃は熱を出したり体調を崩すことも殆ど無かった。家族が慣れない土地に気をとられ、家族ゲームが手薄になり、広いのびのびした環境で一人解放され、マイペースに過ごせた時期だったのだ。

ごく最近、東国三社のお参りツアーに参加して、この地のすぐ近くまで行った。やっぱりどこまでも広い平野だった。


約2年間の転勤期間を経て、再び元の本社に父が戻ることになり、懐かしき関西へ戻ることになるのである。



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