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書く理由

家族という舞台で、自分の役がとても嫌だった。小さく弱く、時にピエロのように、時に従者のように。

躾が厳しくて嫌だったとか、わがままを聞いてくれないから嫌だとか、子どもが家族へ持つ不満にありがちな事ではなかったように思う。

子供ながらに、家族が無意識に与えようとするその役が嫌だった。思春期になると、なんて馬鹿馬鹿しい家族ゲームだろうか?なんでこんなのに参加しなきゃいけないのか、嫌で堪らなかったのだ。

母親は感情的ではあったが、料理をし掃除をし、家は快適で整えられ、キチンとしていた。育児放棄や、あからさまな虐待はなかった。(感情にまかせて叩かれたりはあったが、常態的ではなかった)

父親はキチンと働き、酒もタバコもやらず、日曜日には家族サービスをしていた。お金に困ったこともない。

兄はいわゆる優等生で成績優秀、粗暴な振る舞いなどしたこともない。


今、改めて思い返し客観的に見れば、昨今の毒親、虐待などとは違うように思える。

優しく真綿で包むような、しかし息苦しくて、ムズムズして、まとわりつくような不快感。一体何が私を苦しめたのだろう?


その頃は心屋さんもナリ心理学もなく、毒親とかアダルトチルドレンとかいう言葉もなく(あったのかもしれないが、まったく一般的ではなく、思春期の私には情報はないに等しかった) 親の悪口を言おうものなら、たちまち非国民、この親不孝もの不届きものめロクな目に会わんぞ的な攻撃に晒され、癒しも救いもなく打ちのめされるだけだった。ましてや世間からみて異常な家族でもなく普通の一般的な家庭である。悪いのはおかしいのはオマエと言われるだけであった。

レジスタンスのように、同じ感覚を持ったごく少数の人とヒソヒソと、親を殺すか自分が死ぬか、そんな話をしていたのである。



そうだ。当時は高度経済成長期、一億総中流と言われた時代。戦後どこからともなく与えられた、家族ってこんなもの、幸せってこんなもの、こんなストーリーを生きなさい、少しでも外れたら怖いよおしまいだよ笑われ晒し者にされるんだよ、そんな不思議なヘンテコリンな価値観に覆われた時代だったのだ。

私は何も考えずそのストーリーに嵌まろうとする自分の家族に反吐がでるような嫌悪感を抱いていたのだ。


ああ、書いていて、今まさに気が付いた。




過去にも過去に対峙し、分析し、消化し、浄化してきたつもりだった。が、今、時代が大きく変わった。情報に溢れ、私は自由で、ストーリーから少し離れた視点を感じ始めている。そんな今だからこそもう一度過去を丁寧に振り返ってみたら、何が見えるのかやってみたかったことなのだ。

過去も未来もない、あるのは今ここだけ。確かにそうなんだろう。過去をほじくり返したって、とも思う。こんな過去を生きてきました!と誰かに知ってもらいたいわけでもない。

ただ今一度振り返ってみたら、今ここに何が見えるのか、こうだと思い込んでいたものがどうひっくり返るのか、見てみたい衝動に駆られて始めてしまったのである。


今日ひとつひっくり返って、驚きながらも、ああ、これかぁと、少し離れた視点が呟いたのだ。




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