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incident ②

奥さんは用事で出かけていた。そこへ少し離れた区の警察から電話があった。T氏はおられますか?と。
不在だったので素直にいませんと答える。奥さんも不在なので伝言があれば伝えておきますが、というも結構ですと切られた。

自転車でも盗られたのかな、と思っていた。奥さんが帰ってきて、電話のことを伝え、まもなく夕方のニュースが流れる頃、ことの次第がわかった。

T氏は、ニュースで流れるような未遂事件を起こしていた。
ニュースを見た人からの連絡と、警察からの再度の連絡がほぼ同時にあったのだ。


後々わかったのだが、T氏は多額の負債を抱えた状態で、その額は奥さんが把握している額を遥かに超えていた。
その負債を一掃すべく、とある刑事事件を起こしたのだ。(幸いにもと言っていいのだろう、未遂に終わり、誰かに傷を負わせたりということもなかった)

アトリエの方は、奥さんがすぐに廃業届を出した。実に呆気なく終わってしまったのだ。

ところがデザイン事務所の方は会社なので、こちらの方がややこしいことになってしまった。詳しいことはわからない。関わった人やT氏の古くからの友人が、協力してくれて対応していた。

アトリエは自宅も兼ねているので、いろんな電話が掛かってくるようになった。
奥さんは弁護士の勧めもあって、家から離れた。しかし家を空けてしまうと不当に盗られてしまう可能性があるとのことで、娘ちゃん息子くんとその友人、私で、アトリエに残った。

銀行や取引先からの電話は、まぁ当たり前だろう。
あまりお柄のよろしくない所からも借金していたようで、恫喝するような電話もあった。しかしこれもあらかじめ予測していたので、のらりくらりとかわしていた。
(何しろ当事者は警察の中だし、奥さんについてもこの時は全く居場所を知らされてなかったので、赤の他人の私としては、知らない、わからない、留守番なので、で通せたのだ)

一番ココロを暗くしたのは、事件ともT氏とも、まったく関わりのないと思われる人が、電話の向こうから、嫌味や罵声を浴びせてきたことである。
こういう人がいるとは聞いていたが、実際に接すると、その根暗い感情の波動を浴びてしまうせいか、グッタリと気が重くなるのだ。

借金取りの恫喝のほうが、遥かに健全な気さえするのである。だってオッチャン仕事だものねぇ。 


T氏とその家族に対し、掌を返す人々と、手を差し伸べる人々と、パッキリと別れた。

え、あんなに仲良さげにしていた人が?あからさまに蔑むようなことを言ったり、薄い付き合いなのかなぁと思っていた人が親身になってくれたり、人の世の表と裏を一時にに見せられた気がした。

取引先に小さな鍍金屋さんがあった。
兄弟2人で切り盛りしており、少ないロットでも対応してくれ、迅速かつ丁寧な仕事で定評があった。その分仕事には厳しい。
鍍金は下地の処理が重要である。
特にシルバーは酸化膜が残りやすい。これがとれてなくて、表面のバフ仕上げが悪いと、鍍金のノリも悪い。
表面仕上げのマズさを鍍金でごまかすイメージがあるが、逆なのだ。
弟は無口で黙々と作業担当、兄は作業と共に営業にも出る。
この兄の方が強面だった。
仕上げがマズいと、その場で突き返されたり、時には電話で取りに来いと言われる。
相手がヤのつく人でも、気に入らないと門前払いすると聞いたこともある。
しかし腕は確かで、その世界ではそれと知れた鍍金屋さんだった。

この兄が、アトリエに現れた。

アトリエにはT氏がコツコツと集めた工具や機械がある。高価なものもあるし、手に入りにくいものもある。
兄はT氏と付き合いが長いこともあって、そのことを知っており、同じモノづくりの徒として、このまま価値もわからない借金取りに二束三文で売り払われるのが忍びなかったのだろう。
そして、それまで誰も私に言ってくれなかったことを、彼は言ってくれた。

ここまでやってきたアンタの腕と、工具や機械を、このまま終わらせるのはもったいないやろ?
空いてる倉庫に機械と工具はいつまでも預かっててあげるから、アンタ、どっか落ち着ける場所見つけたらそこで仕事引き継いでやれへんか?と。

工具や機械はともかく、私自身を評価してそれを言葉にしてくれたのは、この人だけだった。ましてや、あの仕事に厳しい兄である。
泣くほど嬉しかった。

しかし、事件以降、T氏の言動には(接見弁護士さんから漏れ聞く限りでは)、自分の子供には何かを残そうとしていたが、私にはなんのコメントもなかった。
なんとも悲しいことだか、T氏の思考の中には、仕事を失う私の立場など入ってなかったらしい。
もしも娘ちゃん、奥さんと共に、その中に私も含まれてアトリエを引き継ぐのであれば、(もしかしたらT氏はそうなるだろうと勝手に思っていたのかも知れない)問題はない。
しかし、私個人が引き継ぐのは、T氏の性格を考えると、盗った、と判断されかねない。
娘ちゃんにも奥さんにも、アトリエの仕事には強い思い入れはなかった。

T氏の工具や機械には私はタッチしたくない、と兄に告げた。
ならば、それとは別にアンタ個人でやれば?と言われた。
確かに個人でやっている所もあるし、そんな所のほうが多い業界だ。
けれども、当時28歳の私には、個人事業主になる根性がなかった。

今なら、面白そ〜!と言ってやれば良かったのに、と思う。まだまだ冒険できる年頃だったのに、と。

事件から1ヶ月弱過ぎた頃、留守番の息子くん友人が、食事に出た隙に、鍵を変えられて入れなくなり、アトリエと家は差し押さえられてしまった。
私も、完全に行き場をなくしてしまった。

いきなり真っ暗な大海原に、ポチョンと落とされたような気分だった。

先の見通しはない、とりあえずのバイトも見つからない、家には絶対帰りたくない、貯蓄が尽きればホームレス?

そんな時に、奥さんの妹である、ヨリコ姉ちゃんに、遺跡発掘のバイトに誘われたのである。

シルバー加工の職人として仕事をしたのは、約7年間だった。好きな仕事を好きなようにやらせてもらったと思う。
仕事も生活も豊かだった。
ありがたいことだと思う。
ただ、永遠ではないのだ。
王子様とお姫様は幸せに暮らしました、めでたしめでたしで、終わりではないのである。
生きている限り、物語は続くのだ、良くも悪くも。


その後、私は京都の仏具製造業の求人を見つけ、そこへ飛び込むことにした。
奥さんとの付き合いは続いた。
奥さんは、京都へ旅立つ私を見送りに来てくれて、ニヤリと笑って「これで済んだと思うなよな」と言った。
関西流のギャグで、付き合いは変わらずまだまだ続くぜ!という意味である。
奥さんは事件後、離婚していた。


娘ちゃんも息子くんも、その友人たちも、それぞれの道へ進んだ。

T氏とは、その後会わなかった。
T氏らしく生きたと思う。他人の評価などどうでもいい。

何年か経って、T氏は病気で亡くなった。
亡くなる少し前に、娘ちゃんから連絡があり、病院へ訪れた時には、もう意識もない状態だった。
なんの感情も湧かなかった。
生きたなぁ、と思っただけだ。
生き切った、というべきだろうか。

お通夜には、息子くんとその友人軍団が集結し、オッチャン激しかったよなぁ、とT氏列伝に話の花が咲き、みんなで笑って見送った。
息子くん、娘ちゃん、友人軍団はゆるやかなクリエイティブ集団を形成して、仕事や情報をシェアしていた。T氏は、モノや場所は残せなかったけれど、そのマインドはしっかり彼らの中に残っていったのではなかろうか。


ただ一つ悲しかったのは、ネコたちもバラバラになってしまったことだ。
トラはすでに亡くなっていたが、残ったネコたちは、奥さん、娘ちゃんと引越しをした。ところが、ストレスからか病気になったり行方不明になったりして次々といなくなり、最後まで残ったのはチビだけだった。

ネコたちの中で、子猫で拾われてきて、わたしの作業エプロンのポケットを寝床にしていたコがいた。クマという黒猫だ。私に懐いていたのでもらい受け、一緒に京都へ行ったのだった。

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