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自伝的なもの

私の物語は私しか知らない。

ある時期から自分の過去にはこだわらなくなり、忘れるに任せていたが、1つの物語として今一度眺めてみようかという気になった。(歳をとったということだろうか?) 散文的にではあるが、少しずつ書いてみようと思う。

誰に向けてでもなく、仮想空間にその物語を浮かべてみたら、どうなるのだろう。


私の出生には、その後の私に多大なる影響を与えたことがある。まずはその経緯を書いてみようと思う。しかしことは、母と父とでは若干の記憶の相違があり、ましてや新生児の私には記憶がない。多分の推測を含んでいるが、物語にしてみよう。

私が生まれたのは昭和40年である。その数年前から病院での出産が増え、私が生まれた都会では主流と言ってもいいだろう。私は自宅で産婆さんに取り上げられたので、比較的珍しいケースだと思う。理由はすぐ上に年子の兄がいたからである。母親は6人兄弟の末っ子で祖母はすでに高齢であり、一歳になるかならないかの兄を預ける先がなかったようで、自宅出産を選んだと聞いている。

私自身が妊娠出産を体験してみて理解出来たことだが、返って母体に負担をかける選択だと思う。高度経済成長期真っ只中で、父親は家事のサポートどころか深夜まで帰らず、その性格からも、まぁ、なんとかするんだろう程度の認識だっただろう、ここは推測であるが。乳幼児の世話をしながらの妊娠期間、産後も家にいれば嫌でも動いてしまうだろう。

生後一週間で私はミルクを吐き、高熱を出し、入院して保育器に入ったのである。退院後は入院前より体重が減っていたそうである。

また、私が入院していることによって、産後すぐの母が倒れ、兄の世話もままならず、どこかに預けなくてはならなくなったがそれは困るということで、充分に体重も増えていないままやや強引に退院させたそうである。その後、この歳まで生きているところを見ると、結果オーライなのだろうが、この話を聞かされて全くいい気がしなかったものである。

母は生まれつき気管支に異常があったからだといい、父は沐浴後湯冷めさせて風邪から肺炎になったのだといっていた。この記憶違いやはっきりしないところは当時かなり大変で心身共に負担が大きかったからであろう、、、とは思うが、当事者は複雑な心境である。

さらに、である。私の誕生日は、事実と戸籍では相違がある。なんでも混乱の中でかなり慌てて出生届を出したため(父曰くであるが)、届出時の記入間違いか、先方のミスかは定かではないが、誕生日はそのままで誕生月を一ヶ月ズレて登記されてしまったのである。母子手帳はどうなっているか?なんと二重線で訂正されているが、前後の記録、産婆さんの記載で明らかに戸籍とは一ヶ月ズレている。しかも、4月であるところを3月とされてしまったがために、学年が一年早くになってしまったのだ。その事実に気付いたのは、小学校入学の知らせが来て初めて知った、と両親は言うが、その前に普通に幼稚園に通っていたので、この言い訳はかなり怪しいのである。

その後年子の兄と双子のように育てられるも、何かと虚弱であった私は、家族という小さな社会の中で常に絶対弱者の地位を両親は無意識に与えてしまい、その後の私の精神的成長に大きな影響を与えたのである。


ここまで書いてみて、久しぶりになんて酷い両親なのかと思った。予想通りに私は思春期以降大の家族嫌いになって、心理学や精神分析や様々理論武装して戦いを挑み、距離を置き、時間をかけて緩み許し癒して来た。その過程でこの出生に纏わる一連の出来事がおよその始まりであるだろうと思い至り、向き合い突き詰めそして手放したので、最近はすっかり忘れていたのだから。

おかげ様で、こんなことがあったなぁ、あの時は悲しかったなぁと思い出しても、フラッシュバックの様にリアルな感情は湧かず、昔の古い日記でも読んで他人事のように、フッこんな時期もあったっけ、と思う程度である。

であったはず、そのつもりでいたのだが、、、

私は今年54歳になり、母は13年前に亡くなり、父は90歳で存命である。

この歳になっても、両親との関係性が影響するものか、ということが最近あったのだ。

このことが今一度振り返ってみたいと思ったきっかけだったかも知れない。少しずつ自分を整理するつもりで書いていくつもりである。今日のところはここまで。






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