JOKER/ジョーカー 見ました。※ネタバレあり

 ただお行儀よく生きていたかっただけなのに。

 ブルク7 シアター1 ドルビーシネマにて鑑賞。ネタバレあります。

 あらすじやらなんやらは色んなところですでに言われている通りです。タクシードライバーとキングオブコメディのオマージュとかもですね。

 バットマンでおなじみのヴィラン、ジョーカー誕生のお話です。

 主人公は売れない道化師のアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)。彼は自分の意思と関係なく笑いが止まらなくなる障害、精神疾患、介護を必要とする母など、色々抱えながらもコメディアンとしての夢を追い続ける中年のおじさんです。

 とにかくこの映画、アーサーを応援したくなるようにできているところがあります。ガリッガリの体で、状況にかかわらず大声で笑い始め、挙動不審の彼を周りはバカにしたり、からかったり、殴ったりするわけです。虐げられています。仕事もうまくいかないのでひどく貧乏です。

 そんな彼の状況、ぶつけられるおそろしい感情や言葉、態度を一緒に味わっていきます。このあたりはぜひいい映像、いい音響をおすすめします。ドルビーシネマで見て正解でした。ストーリーラインだけではなく、絵と音で引きずり込んできます。

 もしのちに家で見ることになるとしたらヘッドホン、イヤホンで。

 そんな彼があるとき地下鉄で、人を見下し、横柄な態度を取る若い証券マン、つまりはエリートですね、その三人を射殺します。

 現実のニュースで見れば、「前途有望なエリートを殺した殺人鬼」というような感想を抱きそうな事件なのですが、アーサーと一緒に色々ひどい目にあってきてこのエリートたちのひどい行いを見た観客たちは「これはもう殺しちゃっても仕方ないよね」というような思いを抱くようにできています。みんながみんなでなく、そう思わない人もいるとは思いますけれども。

 まあここからなんやかんやあって、人からバカにされてもお行儀よくして(そうでないところもありますが)、夢を追い続けるアーサーからどんどんとジョーカーへと変わっていきます。障害や疾患があっても、どこにでもいる隣人であった彼が「マトモ」になっていくわけです。

「彼のような社会的弱者を助ければこうはならない!」とかいうそんなお話ではありません。みんなみんなを個人レベルで助けるなんてできることではありません。ヒーロー側の映画で「気持ちがあれば特別な能力がなくともヒーローになれる」ということがよく言われますが、なれないんですよね。ここがこの映画のすごくいいところです。ちゃんとヴィラン側の映画になっています。とてもジョーカーて感じです。というか、そもそも助けなければならないという発想自体がおこがましいのかもしれません。

 話の終盤でアーサーはずっと憧れてきた番組に出演できることになりました(この映画、現実と妄想の境界があいまいなので、ここもどっちなんやろうって観客はハラハラします。個人的に殺人シーンよりハラハラしました)。

 で、そこに呼ばれた理由なんですけれども「アーサーの芸で笑うためではなく、アーサーを笑うため」なんですよね。彼は世間から見てコメディアンの才能がないのです。その滑稽な姿を笑いたいだけなんですよ。アーサー自身の笑いのセンスがずれているのは劇中何度もでてきます。

 まあその前からアーサー自身気づいているんですけどね。笑いものにされていることは。彼は周りから見れば「おかしい人」なんですが、彼自身はみんなとまったく変わらないわけです。「笑われれば傷つくし、腹も立つ」わけです(ガンダムNTのゾルタンみたいな)。

 番組を見ている人たちはまったくそんなこと想像もつきません。出演者たちもです。ひどい上から目線です。「お前のようなやつで笑ってやるんだから感謝しろ」という感じです。マッチ棒みたいな扱いです。使い捨てです。

 やってることはSNSとかで上げられている風変わりな人の映像とまったく同じなんですよ。本当にひどい。

 ですがこの映画の観客はアーサーが自分たちと変わらない心をもっていることを知っているんですね。ここまでじっくりじっくり一緒に歩んできたので。彼だって善良とは言い切れないところもあるけど、一生懸命で、そしてなるべく周りに迷惑を与えないよう、お行儀よく生き続けてきただけなのに!

 はい、というわけでその番組に出演中(生放送)、ずっと憧れ続けてきた司会者を撃ち殺します。「俺を笑いものにしてんじゃねえぞ」ってことです。ここで完全に彼はアーサーからジョーカーになってしまいます。ほいでもってゴッサムの街も以前から富裕層、権力層に対する不満などからジョーカーシンパが増えていて、暴動が起きます。

 個人としても、周りからしてもアーサーという人はいなくなっちゃったんですね。それはアーサーは永遠の孤独を味わい続けることになるということです。司会者を撃ち殺して警察に逮捕され、パトカーに乗せられているとき事故にあって失神し、シンパの見守る中目を覚まして立ち上がるさまはキリストです。暴動を美しいと肯定し、一度死に、蘇り、彼は個人ではなくなったんですね(別の話ですがここからまた個人に回帰するのがロボコップだと思っています)。

 オチは、まあもう実際に見ていただいた方がいいと思います。とにかくこの映画は見た人によって感じ方が違うと思います。それがとてもいい映画です。懐が深いですね。色んな気持ち、感じ方を受け入れてくれるような。

 先ほど弱者を助けなければならないという発想自体、おこがましいのかもしれないと書きました。そう思うのは、アーサーのかつての同僚であった小人症の男の人です。彼はアーサーのある殺人の目撃者になったので一緒に殺しておくのが合理的なところなのですが、アーサーは彼を逃がします。

「本当に優しくしてくれたから」

 そうなんですよね、なにか特別なことをしなきゃならないわけではない。ただ自分がされて嬉しい、いいな、ということ、相手が傷つかないことをするだけでいいんですよね。

 鬱映画、心が弱っているときに見るべき映画ではない、悪影響を与える。

 などと言われていますが、僕はとても道徳的な映画だと思いました。人は人なんだということを改めて認識させてくれます。「いい人であれ」というお話ではありません。

 そして終わったあとはなんだかとても爽やかで、心があったまるところがありました。作品への受け入れ方も人それぞれでいいと思います。

 とまあここまで書いてきましたが、僕自身人の悪口を言ったことがないわけではないです。色々言ってきて、間違いなく傷つけてしまっています。今でも後悔することがあります。

 だからこそ相手への敬意を忘れずに、そして己の気持ちだけを優先させずにこの社会で生きていきたいですね。

(ちなみにこの世界でのブルース・ウェイン君ですが、いつものように両親を目の前で射殺されます。ですがきっと彼はアーサーと違い、ウェインの人間なので手を差し伸べてくれる人がいるわけです。効いてますね)

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