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広島のお城②吉田郡山城

おはようございます、ほどほど夫婦のたけちです。
今回の広島のお城は吉田郡山城を紹介します。
吉田郡山城は中国地方の英雄毛利元就の城なのでもっと有名になってもいいと思ってます😕

【毛利元就公像】

1 吉田郡山城の概要

吉田郡山城は山城(見てわかるよ💢)
築城主は毛利氏、築城時期は不明です。
築城時は砦程度のこじんまりしたものでした。

【三の丸の石垣跡】

2 毛利元就の時代

1523年多治比元就こと毛利元就が甥の死後、毛利家の家督を継いだときも小規模のものでした。
元就は、まず、周囲の国人領主の盟主となり、その後戦国大名への脱皮を図っていくに伴い城郭を拡大していきます。
1540年尼子晴久(当時は詮久)率いる3万の大軍を迎え撃った吉田郡山城の籠城戦では自国の農民8000人あまりを城に収容したと言われていることからかなりの規模の拡張が施されていたと考えられます。

【二の丸】

その後、厳島の戦いから尼子一族を滅ぼすまでの間も元就は一貫して吉田郡山城を根拠地として最終的には郡山全域まで拡張するに至ります。

3 元就死後

【郡山城からの眺望】

1571年元就死去以降、孫の輝元が毛利家を相続します。
輝元も当初吉田郡山城の城下町を整備します。
しかし、今もそうですが、山間で土地に制限があり発展に限界を迎えたため1591年輝元は広島城の完成をもって家臣や城下町の商人らを広島城下へ移住させます。以後毛利家の本拠地は広島城となり、吉田郡山城はいつの間にか廃城となります😩

4 スタンプ

【結構昔のスタンプ】

吉田郡山城のスタンプは吉田郡山城の登山口にある安芸高田市吉田歴史民俗資料館で頂けます。
全ての家臣団が入居出来たというほど巨大であったと吉田郡山城
元就の中国地方の覇者たらしめたのは元就本人の才覚もさることながら吉田郡山城という絶対安全領域があったことも一因だったかもしれませんね😄

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