デイヴィッド・グレッグ『あの出来事』のためのノート2

 デイヴィッド・グレッグとは、以前エディンバラを訪れたときに、共通の知人の紹介で一度挨拶を交わしたことがある。すっかり緊張してしまって、自分が何を話したかはまったく記憶にないのだが、グレッグの話す英語がとても聞き取りやすかったことは覚えている。スコットランド訛りのない標準的な英語だった。それもそのはずで、日本に帰ってから調べてみると、グレッグは生粋のスコットランド育ちとは言いがたい経歴の持主だったのである。
 グレッグは、1969年にスコットランドの首都エディンバラに生まれている。しかし、父親の仕事の関係で幼少期をナイジェリアで過ごすことになった。いったんスコットランドに戻った後、イングランド南西部にあるブリストル大学へ進学する。演劇教育にかけては定評のある大学だ。グレッグと同時期に、サラ・ケイン(1971年生まれ)やサイモン・ペッグ(1970年生まれ)も在学していた。さぞかし、刺激に満ちた学生生活だったにちがいない。ちなみに、同じく劇作家への道を歩んだケインとは、卒業後も親交が続いたようである。1999年にケインは自ら命を絶つが、死後に出版された戯曲全集の序文を執筆したのはグレッグだった。
 このように長く故郷のスコットランドを離れて暮した後に、グレッグは職業として戯曲を書き始めたのだが、地方在住の劇作家にとって、母語が標準語であることはけっして有利な条件ではない。方言を生かして、その土地に住む人びとの話しぶりをリアルに描き出すというタイプの作品が書けないからだ。いまでこそ、さまざまな文体を自在に使い分けられるグレッグだが、劇作を始めた当初は、スコットランド訛りの台詞を書くことには自信がなかったという。出世作となった『ヨーロッパ』の舞台設定がスコットランドではなく、中央ヨーロッパになっているのはそのためだ。本作は1994年に、エディンバラのトラヴァース劇場で初演されている。
 もはや列車が停まらなくなった辺境の寂れた駅に、移民の父娘がやって来るところから物語は始まる。プラットフォームで寝泊りを始めた父娘を、駅長はなんとか追い出そうとするのだが、そのうち駅員と父娘との間に交流が生まれていく。しかし、移民に仕事を奪われていると考える地元の若者たちは、父娘を快くは思わなかった。ある夜、彼らは駅舎に火炎瓶を投げつける、という筋立てだ。
 戦後の産業構造の大きな変化につれて、造船などの重工業がすっかり衰退してしまったスコットランドの地方都市が舞台でも少しも違和感のない劇であろう。しかし、観客の耳に嘘っぽく聞こえない台詞を書くために、グレッグがわざと場所を特定しない書き方を選んだことが、この戯曲に容易には古びない批評性を与えた。国境を越えて大量に流入してくる移民と、彼ら/彼女らを排斥しようとする下層の労働者との間の軋轢は、今世紀に入ってますます、ヨーロッパのみならず世界各地で顕在化してきている事態ではないか。実際、本作は今夏ロンドンで再演され、作者グレッグの「先見の明」が批評家たちの称讃の的になっている。
 この『ヨーロッパ』から約20年後の2013年に、同じくエディンバラのトラヴァース劇場で初演された『あの出来事』でも、グレッグはまた同じ主題に向き合っている。この作品の主要登場人物は、ひろく移民に門戸を開放した合唱団を指導しているクレアという女性と、その合唱団に銃を乱射した少年だ。初演の舞台の劇評に、地元『スコッツマン』紙のジョイス・マクミランは「グロバールで国際的なキャンバスを用いて、埋もれている普遍的な真実を探ろうとしている」と記していた。20年前の『ヨーロッパ』について書かれた評だと言われても、しっくりする文言だろう。つくづくデイヴィッド・グレッグの芯のぶれなさを思う。

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