東京乾電池『ヂアロオグ・プランタニエ』(2008年12月)

 先日、下北沢のアトリエ乾電池で上演された東京乾電池の『ヂアロオグ・プランタニエ』がとても面白かったので、この劇団が13年前に新宿ゴールデン街劇場で同作を上演したときに書いた拙文をアップしておく。『シアターアーツ』38号に寄せた劇評の一部に少し加筆したものだ。今回の柄本明の演出は、13年前の上演とは大きく異なっているが、意外なことに観劇後の印象はさほど変わらない。どちらも台詞がよく聞こえてくる中身の濃い舞台だった。

(以下、13年前の拙文)

 東京乾電池が、岸田國士の初期の作品『ヂアロオグ・プランタニエ』を新宿ゴールデン街劇場の舞台にかけた。岸田のこの戯曲は1927年に書かれていて、由美子と奈緒子というふたりの若い女性の対話、「ヂアロオグ」から成っている。由美子と奈緒子はともに、町田という男に思いを寄せているらしく、町田がどちらに好意を持っているのか、お互い気が気でならない。いろいろ駆け引きをしながら相手から情報を探り出していくうち、どうやら町田に好かれているのは由美子の方らしいとわかるところで終わる15分ほどの小品である。今回の上演では、由美子を沖中千英乃、奈緒子を松元夢子が演じた。パンフレットには、演出のところに劇団東京乾電池と記されているが、出演者を含めて若手の俳優たちがお互いに意見を交換し合いながら作品を仕上げたのであろう。
 せいぜい15分ばかりの短い作品だから簡単に上演できそうに見えるが、いざ実際に舞台にかけるとなると、案外やっかいなところが多い戯曲である。まず、場所をどこに設定するかが問題だ。戯曲にはなんの指示もないが、これだけ込み入った恋の話を若い女性が戸外の立ち話で済ますとは考えにくい。かと言って、舞台を室内に設定して、ふたりを椅子に座らせると、極端に動きが少なくなって、見ていて変化に乏しい劇になってしまう。
 今回の東京乾電池の公演では、卓抜なアイディアでこの問題を処理していた。窓状の四角い開口部のあるパネルを舞台の前面に立て、観客は、喫茶店の窓際のテーブルに座って対話をしているふたりを窓越しに見ているという設定にしたのである。
 もちろん、パネルを立てたところで、俳優は椅子に座ったままなのだから、動きに制限があるのは変わりはない。だが、観客は視野を狭められることで、見える範囲にあるものへの注意力を高められ、パネルのない舞台であれば見過してしまいそうな表情の微細な変化にまで注目するようになる。ちょうど、映像におけるクローズ・アップと似たような効果が生まれて、俳優が座ったままでも十分に動きがあるように見えてくるのだ。
 また、このようにフレームを通して俳優を見ることで、岸田國士の台詞がいつもとは違って聞こえてくるのが新鮮だった。ひと昔前の日本映画を見ているような感覚がして、岸田が用いている昭和初期の話し言葉の言い回しが、抵抗なくすんなりと耳に入ってくるのである。この戯曲を提示するうえで、舞台前面に立てられたパネルは、まさに打ってつけの「枠組み」として機能していたと言えるだろう。
 しかし、いくら立派な枠組みをしつらえても、その内側で行なわれる演技が拙劣では中身のない舞台になってしまう。その点、沖中千英乃も松元夢子も俳優のすべき仕事をきちんとこなしていた。ふたりとも独り善がりな誇張された演技に決して流れることなく、相手役の台詞に素直に反応して対話を組み立てていく。こうした自然な演技のおかげで、ひとりの男をめぐる女ふたりの複雑な心理の駆け引きが、フレームの中にきめ細やかに描き出されていたのである。
 なかでも圧巻だったのは、幕切れのふたりのやり取りだ。自分が恋に破れたことを悟った奈緒子は、一読しただけでは論理の筋道がつかみにくい少し長めの台詞を口にする。ここでセンスの悪い俳優であれば、言葉の意味をいちいち確かめるように、一つひとつの文をゆっくり発話することだろう。だが、松元はちがう。一切、間を置かずに一息で台詞を言い切ってしまうのである。ここでの奈緒子は、自分でも意味を理解して言葉を口にしているわけではない。むしろ、松元の演じるように、口に出した言葉の方に思考がひきずられてゆくという状態だろう。だいいち、ゆっくり間を取って言えば、相手役の由美子が「奈緒子さん、どうなすつたの……」という次の台詞をもっと早くに言わないのが不自然になるし、そもそも岸田國士自身、ここにはひとつも「間」という指示を入れていないのである。この長めの台詞をスピードをつけて一気に言い切るからこそ、それが言わば助走として機能して、その次の奈緒子の幕切れの台詞「あら、あんなに……あんなに鳥が……」という突拍子もない飛躍が鮮やかに決まる。短くはあるが、しっかり中身のつまつている感じのする舞台であった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?