疫病を主題にした音楽劇:マーク・レイヴンヒル『十の災い』

 ここ数週間、政府の外出自粛要請に従って、1日に1回散歩に出かけるほかは蟄居を続けている。酒量が大幅に減った。家では週に1度、ビールの中瓶を1本空ける程度だ。自分は酒そのものよりも酒場に出かけるのが好きだったのだろう。また、いま国内外の多くの劇場が過去の秀作の動画を無料で配信しているが、ほとんど見ていない。パソコンのモニターの前では、どうも腰を落ち着けていられないのである。思っていた以上に、劇場で他の大勢の観客と時間と空間を共有するという行為が演劇の魅力の大きな部分を占めていることに、いまさらながら気づかされた。
 ただ、最近DVDで見直して発見があった舞台がひとつある。2011年にエディンバラのトラヴァース劇場で初演された『十の災い』(Ten Plagues)という作品だ。劇作家のマーク・レイヴンヒルと作曲家のコナー・ミッチェルが、どちらからともなく音楽劇を共作しようと言い出してスタートした企画らしい。と言っても、いきなり本格的なミュージカルやオペラを手掛けるわけにもいかないから、ふたりはもっと小ぢんまりとした形式を選ぶことにした。レイヴンヒルの歌詞にミッチェルが曲をつけた『十の災い』は、シューベルトの連作歌曲集『冬の旅』のように、ピアノの伴奏つきの独唱でひと続きの物語が綴られていく作品である。歌い手を務めるのは、1980年代のイギリスのニューウェーヴを代表するデュオ、ソフト・セルのヴォーカリストのマーク・アーモンドだ。
 物語の舞台は、1665年のロンドンである。この年、ペストが大流行し、ロンドンの人口のおよそ3分の1が命を落としたという。感染を恐れて田舎へ避難した市民も多かったようだが、アーモンドが演じる本作の主人公は疫病流行下の市内に留まった男だ。彼が目にした出来事、その出来事が彼の胸にかき立てた思いが、重いトーンの旋律に乗せて歌われてゆく。流行の兆しが見えるとすぐに、王侯貴族たちは宮廷から逃げ出してしまい、取り残された庶民は自分で自分の生命を守るほかなくなった。市場へ肉を買いに行けば、肉屋の主人は代金の硬貨を手で受け取ろうとはせず、酢の入ったカップに入れろと言う。350年以上も前のロンドンの光景が身近に感じられてしまうのが恐ろしい。
 なかでも痛切なのは、主人公のもとへ、ペストの症状が身体に出始めた同性の恋人が別れを告げに来る場面だ。主人公は最後に1度だけ恋人を抱きしめようとするのだが、恋人は身をかわす。主人公の生命を奪うことになりかねないからだ。このように感染症によって、近しい人と人との間の結びつきまでもが無情にも断ち切られるのを、まさにいまわれわれは現実に目の当たりにさせられている。
 もちろん、レイヴンヒルは近い将来に疫病が流行するであろうと見越して、ペストを題材に取り上げたのではない。HIV陽性者である彼が、17世紀のペストの大流行になぞらえて描こうとしたのは、AIDSに直面した1980年代のロンドンの同性愛者のコミュニティだろう。レイヴンヒルは、パートナーをこの病気で亡くしているのである。主人公役に、同性愛者であることを公言しているアーモンドが選ばれているのも、おそらくそのためだ。
 2011年の夏に本作をエディンバラで見たとき、わたしは、その年の3月に発生した福島の原子力発電所の事故と、その後の首都圏での生活が頭をよぎって離れなかった。見えない病原菌におののきながら暮らしている17世紀のロンドン市民の姿が、見えない放射性物質の環境や食品への影響に細かく気を配らざるをえなくなったわれわれの日常に重なって見えたからである。
 しかし、この蟄居中にあらためて見てみると、やはり本作の主題は感染力の強い疫病だと考えをあらためた(※これより先、劇の結末についての記述があります)。物語は、猖獗を極めたペストもやがて流行終息の兆しが見え、田舎に避難していた市民がロンドンに戻ってくるところで終わるのだが、そこでアーモンドが「新しいダンスを覚えて、新しい歌を歌おう」と口ずさむと、あらかじめ観客席のあちこちに配されていたコーラスが立ち上がって彼の歌に加わるのである。それまでアーモンドは、ずっと独唱を続けてきた。彼の恋人の姿も、舞台装置の上に映像で投影されるだけである。言ってみれば、彼は他人とソーシャル・ディスタンスを取ってきたのである。だからこそ、幕切れ近くの客席からのコーラスは非常に力強く響く。生身の他者と同じ空間を共有する喜び、客席と舞台の間に感応が生まれる楽しさが、その声にはあふれているのである――テレビの画面越しに、このことに気づくというのはなんとも皮肉だが。
 ところで先月、アーモンドが新型コロナウイルスに感染したとの報道を目にした。誤報であればよいが、かりに事実であったとしても、もう無事に快癒されたことを祈る。



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