存在と不在:デイヴィッド・グレッグの『蜂』

 スコットランド国立劇場が5月末から、『生き抜くための場面集』(Scenes for Survival)と銘打って、サイトに短編動画を定期的にアップしている。すべて新型コロナウイルスの感染拡大により活動の場を失ってしまったスコットランドの演劇人が、きびしいロックダウン生活下で撮影した映像作品である。この原稿を執筆している時点では、およそ20編の動画が視聴可能だが、最終的には50編以上が公開されるそうだ。戯曲の執筆を生業としている劇作家ばかりではなく、推理作家のイアン・ランキンがこの企画のためにリーバス警部を主人公にしたモノローグを書き下ろしたりしているのが面白い。
 いまエディンバラのロイヤル・ライシアム劇場の芸術監督を務めているデイヴィッド・グレッグも『蜂』(Bees)という作品を提供している。ある女性が若かったころの思い出を語る一人芝居だ。この女性の役を、スコットランドで長く活動しているポップバンド、ディーコン・ブルーのヴォーカリストのロレイン・マッキントッシュが演じている。
 スマートフォンで撮影したような縦長の画像の動画が始まると、自宅の庭らしき場所から女性が「あの日もこんなだった。覚えてる?」と視聴者に向かって語りかけてくる。どうやら、大切なパートナー相手に、自分たちが出会った日のことについて話をしているらしい。ふたりがまだ20歳になるかならないかのころであった。誰かの家で開かれたパーティーの席で、初めておたがいを意識するようになったのである。
 そろそろパーティーも終わりに近づき、キッチンでは皿を洗っている音が聞こえ始めたときだ。この女性のいまのパートナーは、彼女にこう話しかけてきたのだった。「みんな原子で出来てるんだよね」。彼女がうなずくと、パートナーは、原子の内部には陽子と中性子があるものの、ほとんど空洞で、原子全体の大きさに対する陽子および中性子の関係はまるで大聖堂の中に蜂がいるのと同じようなものだと説明する。
 ここからパートナーは話を広げてゆく。もし、万物の構成要素である原子の中がこんなにも空っぽであるならば、われわれははたして存在していると言えるのだろうか。存在と不在の間は実は紙一重ではないのか、と。このような言葉を聞かされると、視聴者は、主人公の女性がいま語りかけている相手が画面に映っていないことに意識が向かざるをえなくなる。彼女のそばにほんとうに誰かいるのか。しかも、彼女の回想によれば、その日パートナーは「われわれは基本的には幽霊だ」とまで口にしたというのである。だんだん彼女のモノローグは、すでに他界してしまった人、この疫病に命を奪われたパートナーに宛てたものに聞こえてくる。動画の前半で、キッチンで洗いものをしていた女性が、食器に洗剤をつけすぎたために、しきりに「なにもかも、わたしの指の間をすりぬけてゆく」とこぼしていたというエピソードが紹介されていた。戸外の明るい光の下で撮られた作品であるが、喪失の感覚が本作の底流となっているのである。
 また、考えようによっては、主人公の女性もまた「幽霊」だ。ロレイン・マッキントッシュはしぜんな演技でリアリティのある人物をうまく造型しているが、視聴者が目にしているのはパソコンの画面の光にすぎない。彼女はいま、ここにはいないのである。映像作品の鑑賞体験は、俳優と観客が同じ時間と空間に存在することを前提とする演劇作品のそれと似てはいるけれども根本的に性質が異なる。新型コロナウイルスが蔓延するなか、われわれの「指の間をすりぬけて」いったもののひとつに、劇場で生の舞台に接することも含まれているのである。
 原子の構造まで持ち出して哲学的な議論を始めようとした若き日のパートナーに、この女性は「大聖堂にどうやって蜂が入ってきたのかしら?」と返答して、ムードをぶち壊しにしてしまったという。彼女はこのことをずっと悔やんできたのだが、今日ふと蜂が大聖堂に入った経緯に思いいたった。彼女は、この世に存在することの喜びを称揚する答えを見つけたのだが、ここにくわしく書くのは控えよう。6分足らずの短編だし、英語字幕も出せるので興味のある方はご自分で確認いただきたい。
 日本と同様、スコットランドの演劇界は苦境に陥っている。ロイヤル・ライシアム劇場は2021年春まではとうてい再開の見込みが立たないそうだ。スコットランド国立劇場のサイトでは5ポンド(約700円)から寄付を受け付けている。動画が気に入ったら、協力を考えてほしい。





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