晴読雨読「百年の孤独」


注)2020年11月1日掲載の琉球新報コラム「晴耕雨読」の文章です

読む前と読んでからで自分が変わってしまう本。
あの安部公房がこう評したと聞き、安心して言う。私が沖縄にいるのはこの本が原因だ。

かぐわしい体臭と美貌で世界中の男を虜にする手を使って食事をする少女は唐突にシーツにからめとられて永遠に天上に昇り、厳しい母親の目を盗んで浴室で逢引きを重ねた娘の相手のしゃべらない男にはつねに黄色い蛾がまとわりついている。17人の女に17人の息子を生ませた男に土を食べる女。チョコレートを飲んで浮遊する神父に空飛ぶじゅうたんをもってくるジプシー。100年の間、一族を中心とする人々は欲望にまみれ情熱をそそぎ単純に行動し苦しみあるいは苦しまずに、死ぬ。

巨大なエネルギーを帯びた物語の力と物語る力は、寓話的世界の圧倒的なリアリティを心身に浸透させる。そして物理的現実世界を偽物に見せる。都会のサラリーマン家庭に育ちふつうにOLをしていた私は、二十数年前、自分の世界になにかが欠けていると思い始めた。もしかすると、コンクリートに覆われ時間を奪われ、寓話が入り込む余地のない都市生活のほうが、寓話側からすると逆に寓話なのかもしれない。

近くの川で、10キロ先の街で、道ばたで、店先で、沐浴したりひたすら歩いたり寝たり飲んだりする姿がよく目撃される頑強な身体つきのあの共同売店のお得意さんの周りには、見えないだけで、おそらく黄色い蛾が大量に舞っている。ひょっとすると紫色のシジミ蝶かもしれない。いやもしかすると胴が青く光るハグロトンボかもしれない。あの人の周りにも、この人の周りにも、何かが舞っていそうだ。大宜味にはぶながやがいる。田嘉里にはノロ伝説がある。やんばるの森の中は寓話そのものだ。ここが本当の世界だ。本物の孤独がここにある。初めてやんばるを訪れた時、私は感じた、に違いない。今こうして住んでいるのだから。

中上健次『千年の愉楽』、池澤夏樹『マシアス・ギリの失脚』。好きな本ベスト5に入るこれらの小説が『百年の孤独』に影響されていることが、この原稿を書きながら判明(なぜ今まで気が付かなかったのだろう)。もう一つ、ガルシア・マルケスの命日と自分の誕生日が同じだったことも。

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