令和な共同売店(落ち穂R3.3.3)

 共同売店がなくなったら失われるなにか大切なものとはなにか。

 集落というごく小さい範囲にある共同売店の今の役割としてよく語られるのは、買い物弱者の拠り所、見守りなどの福祉的機能。個人的には、お客さんどうしが売店でたまたま会って軽口をたたいたり情報交換したりといった一見なんでもないことが、実は集落の根幹をなすことなんじゃないか、と思ったりする。

 田嘉里も今では人はまばらで、イベントごとでもないとなかなか人どうしの、特に世代をまたいだ交流が起こらない。そんななか売店は、開いているだけで交流が自然に発生しうる場所だ。売店でのお客さんどうしのあれこれ干渉のしあいにはいつも感銘してしまう。またいろんな人と接するなかで、驚いたり、不意に胸が熱くなったりする。ここは日常のようで非日常なことが起きる偶然の可能性に満ちている場所だと感じている。

 都市の地域活動と比べ、田舎の集落での地縁のかかわりは密着度・粘着度が違う。放っておいてくれないけど放っておかれたらかまってほしくなる不思議。生まれ育った人にとっては安心感がある反面、窮屈さがあるだろう。私のような移住者は能天気に、この密な環境の良さを抽出して享受できてしまう。地方から都会に出て逆に安らぎを感じる人もいるように、人は住む場所を変えると自由を獲得することがあるのだと思う。

 移住者の能天気さで、この人のぬくもりが感じられる、相手の顔が見える暮らしは、令和時代のオルタナティブ(マスに取って変わる価値観)であると言ってみる。大きなもの、メジャーなものの陰で見過ごされがちだったこの価値は、新しい時代の文化としてアップデート可能だと信じている。どうアップデートするか、に共同売店がポイントとなりえるんじゃないか、なんて大それたことを思ったりする。

 『ゲンロン戦記』がヒット中の思想家・東浩紀氏は、コミュニティには村人でもよそものでもない第3のカテゴリー「観光客」が必要と主張する。その心は?

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