利他心の原点②

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中2、自分改革。

そうやってずっと周りのせいにして、周りに依存して生きてきた。でも状況は良くならない。なぜ自分はうまくいかないのか、と考えを巡り巡らせているうちに、ある仮説に行き着いた。

自分が悪いんじゃないか?

そのように考えればさまざまなことをうまく解釈できた。自分の利益ばかり主張して、わがままだったから、他人は自分に何もしてくれないのではないか。折り合いをつけるシーンで自分に味方をしてくれる人が少ないのも、なんとなく先生が喧嘩の仲裁をするときに不満げなのも。
自分自身だって、わがままな相手に助けは差し出さない。いつも協力してあげるのは、自分にも協力してくれる人だけである。そう考えだして、途端に自分が嫌いになった。
 「他人は自分がしてあげた以上のことは返してくれない」
それに気づけば行動は早い。自分改革を始めた。中学2年生の時だった。

徹底的な自己分析と利己的心の否定

 やったことはとても簡単だった。利己的な心の排斥運動である。
 隣の人が筆箱を落としたとする。その際、まずは拾ってあげるのだが、その後に、「その人によく思われたい」という気持ちを持って拾ったか、そうでないかを考える。もし、邪(よこしま)な気持ちがあれば、それを否定し、次からは「相手のために」と考えながら拾うことを決意する、という運動だ。そうしていれば、相手もそのうち自分のこと思って行動してくれる、と思ったのかもしれない。(今思えば馬鹿らしいが)
とにかく、自分を否定することで一度全て白紙にしたかったのだとも思う。スクラップ・アンド・ビルド。この排斥運動は1年間続けた。

相談係、誕生。

中学2年生の時から「邪な気持ち無しで、人の役に立つこと」が至上命題になった。その課題を支えてくれたのが「自己分析の力」だった。
幸い、自分の気持ちを言葉にする練習をずっと続けてきたおかげで、他人が悩んでいることを口にするのも容易だった。そして意外にも繊細さんなのか、悩んでいる人を見つけるのも容易だった。思春期になると、家族のこと、恋愛のこと、さまざまな悩みが登場する。悩みが複雑になってきて、多くの人は「自分がどうしたいのかわからない」状態に陥る。そこで私が「なんかあったん?話聞こか」と意気揚々にでしゃばり、話を聞くのだった。私は周りから浮いていた人間ではあったと思う。だが、馴染んで害のある人でもなかった。意外かもしれないが、皆よく相談してくれた。中学時代だけで何十人も相談に乗ったと思う。

「本質的に相手のためになる」とは何か?

中学3年の時、相談を多く受ける中で、「何が相手のためなのか」という疑問にぶつかった。相談は、自分の為であってはいけない。本当に相手のためにならなければならない。しかし、相手のためとは何か?相談で相手に甘い言葉を掛けて悩みを払拭するのは相手のためだろうか?その後、自堕落するようであれば相手のためではないだろう。では、本質的に相手のためになるにはどうすれば良いのか。
 この問題には、大人になった今でも悩んでいる。というより、中学生の頃にたくさん失敗して、高校1年生の時に悩むのが正しい疑問だという結論に至った。「これが相手のためだ!」と決めつけてやったおせっかいは大抵失敗した。たくさん恥ずかしい思いもした。この時の多くの失敗は相手をあまり理解していないのに、自分の思い込みで発言したことが原因だった。ただ、おそらく相手を99%理解できたとしても本質的な「相手のため」は見つけるのが難しいだろう。
 相手のため、というのはその瞬間だけで完結しない。ことによっては、その瞬間歓迎されなくても10年、20年後に相手のためになることもある。それを経験の浅い自分が予想するのは難しい。だから、相手のためは何か、突き詰めて考えていく必要がある。広い視野で考える癖がついた。
相談に乗る時は、相手と対話し、相手が何を望むのか、どうなったら良いと考えられるのかを徹底的に聞くようになった。そのうち、その人の生い立ちや、家族のこと、価値基準まで明らかにしなれば、相手の本質的に望むことを当てられないことに気づいた。その上で、たくさんの人のその情報から、その人に成り切ったつもりで、相手にとって本質的に価値のある選択を探すよう努力した。しかし、結局それが本質的に価値のあることかはわからない。それでも考え、相手のためになるよう注意深く努力するしかないと、高校3年生の時に悟った。大きな発見だった。この姿勢は今でも自分の中核を担っている。
(ちなみに、大学3年生の時に、相手の生い立ちや価値基準といったパーソナルな領域に踏み入っても、相手の本質的に望むものを理解するのは難しいと気づき、パーソナルな領域には滅多に踏み込まないようになった。)
 

「どこまでが利己的で、どこからが利他的か」

実は中学3年生の時に「何が相手のためか」の他に、もう一つ大きな疑問にぶつかっていた。それが、相談を受けることは本当に「利己的でないのか」という疑問である。相談を受けるということは、その時の自分にとって「利己的な人じゃないぞ」という証明をするための行為だった。つまり、友人から相談を受けることで、「他人のために頑張れる自分」を手に入れようとしていたのである。これは利己的ではないのか?
 この疑問に関しては高校1年生の時に結論を出した。これは利己的であると。隣の人の筆箱を拾うのだって、実は同じことだった。どんなに相手のためを思っていると言い張っても、最後は自分が利益を得ている。結局は、友達の筆箱を見返りなしに拾える綺麗な自分でいるための利己的な行為なのだ。
つまり、この時には自分はわがままで、利己的であると気づいた。どれほど綺麗に見せても、全部利己的な行為である。これはしょうがない。
 しかし、中学時代に気づいたように、「他人は自分がしてくれたこと以上のことは返してくれない」はずだから、利己的な自分でも社会とうまく折り合いをつける必要がある。
 そこで考えたのが、「自分のために、他人にとって本質的な価値を追求すること」である。利己的な自分を否定する必要はなかった。たとえ、自分が「よく思われたい」と思って、隣の人の筆箱を拾っても、隣の人は助かったのだから、それで良いのではないか?行動の動機は重要ではない。行動の結果が最終的に相手のためになることが大事だと考えるようになった。いつかドラマのセリフで「やらない善より、やる偽善」といっていたが、まさにその通りだと思う。
 だからこそ、「本質的に相手のためになるのはなにか?」を突き詰めて考える必要があった。動機が「利己的」で汚いものなのだから、結果はしっかりと突き詰めなければ意味がない。本質的に相手のためになることをして初めて、本質的に自分にとって価値のあるものが返ってくる。これが私の価値観を形作った。

自分は汚い人間だから。

私は人に対して、強い関心を持っている。それが自己分析に繋がり、他者分析の役に立った。
自分は利己的で汚い人間だと自覚しているからこそ、その利己的な行動の結果が「人の役に立つもの」であるよう細心の注意を払っている。人のためになれ、と思って行動しても多くはそうならない。思慮深く、広い視野を持って検討し続けなければ、本質的な価値は追求できない。毎日、浅はかで無知な自分を鞭打ち、思考を重ねている。
 そうして、追求した他者利益が、いつか自分に還ってくることを虎視眈々と期待している、私は汚い人間なのだ。

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