『アトラスの姫』が終わって

こんにちは。こんばんは。
あるいは、おはようございます。
ロマングラスの髙山拓海です。

この度、ロマングラスVol,6『アトラスの姫』が終演いたしました。
座組みの皆さま、ご来場いただきました皆さま、ご声援を賜りました皆さま、本当にありがとうございました。

また、今作品にてロマングラス旗揚げ以降、最多の動員を記録し、とても嬉しく、有り難く思っています。

『アトラスの姫』を執筆したのは4年前の“2020年”。
自分が大学4年生の頃に執筆したものです。
当時は世間が目まぐるしく変わっている渦中で、世間では様々な情報が多様な形で出回っており、〈正しさ〉が見えなくなった時期でもありました。
2020年前後を思い返すと、「昔なら元号が最低3回は変わってたな」と思うような出来事ばかりです。
コロナ、SNSによる情報の乱立、天皇制の是非や形、東京五輪の延期…etc
パッと思いつくだけでも、日本という国が大きく揺らぐような事象ばかりです。
そんな喧騒の中で、『アトラスの姫』という作品は生まれました。
いえ、生まれようとして、生まれることができませんでした。

予定していた公演月が、まさにコロナ真っ只中になってしまったのです。
戯曲はある。場所もおさえた。だのに、上演できない。
中止の決断をしたとき、自分は「生まれてもいない何かを殺してしまった」、そんな気持ちになりました。

だからこそ、この作品を上演できる機会を得られたことは、作者として、あるいは親としてこの上ない喜びでした。

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『アトラスの姫』は様々な要素を含んでいます。
地図作りを軸にしつつ…

・アイデンティティの不安定さ
・肩書き/立場の特異性と周囲への影響
・匿名の噂/SNSが及ぼす影響
・天皇制/女性・女系天皇のこと
・宗教
・演劇という媒体における“当事者”の線引き

…などなど。
このほかにも1つのセリフだけに存在するものや、逆に観客の方から「この作品ってこういうテーマだよね」と言われてハッとしたものも存在します。そこはそれ。解釈って人によるものですから。

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そもそもどうしてこの作品は生まれたのか?

実は、自分の知り合いに地図測量を仕事としている方がいまして。
それを知った時に、「面白そう!」と好奇心で取材に行ったのが始まりでした。
地図測量の現場は非常に興味深く、かつ難解なものでした。
多くの数式やデータ、地学、天文学などが相まって、1枚の紙が世界の縮図になっている。「これは大変なものを取材しにきちゃった…」と思いました。
しかしそんな時、「地図を作るにはね、三角形が重要なんだ」と、取材先の方がおっしゃいました。「三角形を何度も使って測量するんだ。そうすれば、どこにでも測りにいけるからね」と。
その方は続けました。
「地図は宝だよ。戦争の時は、地図があればどこから攻めればいいかわかるから、すごい機密事項だったんだ。」
その瞬間、自分の中で何かがクリアになった気がしました。
「是が非でも芝居にしたい!」と心沸き立ったのを今でも覚えています。
それが『アトラスの姫』が生まれるキッカケでした。

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「なぜ川上フデって名前なのか?」
と、アフタートークで聞かれたので、ここでもお答えします。
川上フデは、川上冬崖という実在の絵師をモデルにしています。
そもそも、この『アトラスの姫』は明治初期に実際に起こった「地図密売事件」をもとに描いたものです。
地図密売事件をここで書くのは長くなるので、気になった方はぜひ調べてみてください。
代わりに、ここで登場人物達の名前のモデルをご紹介します。

ロク…井出孫六(「アトラス伝説」筆者)
マツエ…幾松(桂小五郎の恋人)
勝浦コウタロウ…桂小五郎(長州藩士)
阿野スイコ…推古天皇(日本初の女性天皇)
アトラス…アトラース(ギリシャ神話の地図の神)

胴元のみ、名前のモデルはいません。
観客から胴元へと変貌していく彼女のは、強いていえば「誰でもなりうる人」として書きました。誰もが観客という第三者でいられ、誰もが第三者から当事者へと変わる可能性を秘めている。
そんな「当事者と第三者の壁の薄さ」の象徴。
それが胴元であり、観客でした。

彼ら・彼女らを巧みに表現してくれた役者さんたち、アトラスの姫の世界を形作ってくれたスタッフさんたちには、感謝の気持ちが尽きません。

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と、作品に関してお話ししたいことは山ほどあるのですが、尽きないので自分の現状を書きたいと思います。

公演が終わった今日、4時間ぶっ通しで本を読みました。
読みかけだった、人から借りていた本です。
これだけ長時間読んだのは久しぶりです。
読んでいたとき、自分はまっさらでした。
何も考えず、外界を気にすることもなく、誰かを思い返すこともなく。
ただ、まっさらでした。

自分は、物語を描いています。
そして、物語に救われています。
物語を描いているとき、物語に触れているとき、自分はまっさらになります。何者にも否定されず、何者にも侵されず、自分はまっさらになれます。
そのことが、自分が生きていくなかで、どんな人・物より安心できることでした。
そんな当たり前の、ずっと昔から知っていたはずの内側を、ふと思い出しました。

彼女は言います。
「気づいた時には、もう何もかもが手遅れだ」と。
その通りだと思います。
事が始まってから押し寄せる濁流の中で、何かを立ち止まって考えるということは、ひどく難しいことです。そして、終わった後で「ああすれば良かった」と振り返っても、すでにやり直す機会を失っています。
自分も同じです。
公演が終わるたびに、「ああすれば良かった」「なぜあれに思い至らなかったのか」など、いつも後悔と自責に駆られます。
どれだけ考えたつもりであっても、行動に反映されていなければ、それは考えていないのと同じです。
自分はいつもそうです。人に言われないと気づけず、気づいた時には周囲に不快な思いをさせている。
変わらないといけない。
変わるために考えて、行動しなくてはいけない。
わかっていても、ずっと変われずに、同じ場所で回り続けている。
自分の情けなさも身勝手さも、死にたくなるほど嫌になります。

変わらないといけません。
変わろうと動かなければなりません。
何をどう、はまだ考え中です。
でも、考えて、行動しなければならないと思います。
少なくとも、自分が生きていくために。
自分が自分として胸を張れるように。
他人に何を言われようと、自分が自分を好きでいるために。
自分が好きな自分を、誰かにも好いてもらえるように。

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話は変わりますが、大学4年の頃『アトラスの姫』の上演を予定していた会場は、奇しくも新生館シアターの方でした。コロナ禍で上演する機会を失った本作を、本来上演するはずだった新生館系列の会場で上演できたこと、本当に嬉しく思います。
これも何かのご縁、繋がりでしょうか。

こうした繋がりが、自分をただの物書きではなく、劇作家・演出家の道へ進ませた大きな理由でもあります。

まだまだ、大手を振って劇作家・演出家を名乗ることはできません。
(名乗ってはいますが、便宜上名乗っている節は多分にあります)
実績や作品云々の話だけではなく、自分の覚悟や気持ちの問題です。
“劇作をやってる人””演出をやってる人”から、いつか抜け出したい。
抜け出すために、自分に何が必要なのか。
周りを不快にさせないために、何が足りないのか。
終わった今も、ずっと考え続けています。
自分がこれからも演劇を続けていくためには、考え続けなくてはならないことです。
最期の瞬間まで「自分が何者であるか」を考え続けた、川上フデと同じように。

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ちなみに、『アトラスの姫』はDVD受注を行っています。
劇場に来られなかった方
もう一度観たい!と思っていただけた方
誰かに見せたいと思っていただけた方
ぜひ、この機会にご購入いただければ幸いです。


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