深夜の呟き_『ワタシが私であるために』

こんばんは。
ロマングラスという演劇創作集団で代表を務めております、高山拓海です。

ロマングラスは“劇団”とは名乗っていません。
なんでしょう…、しっくりこないんですよ。集団化したばっかりということもありますが、なんとなく劇団って感じではなくて。めちゃくちゃ結束したユニット?…ではないし。チーム?いやいや。演劇集団?…違うな。なんて考えてはや2ヶ月半。
最近は開き直って、「いいや!説明上は演劇創作集団とか劇団って言うけど、『ロマングラス』で!」と個人的には思ってます。(メンバーがどうかはさておき)

さて、作品のお話です。
多分、今回は長くなるかな…。めんどい方は短編集を読むが如く、独自に区切りながらお読みください。それでもめんどい方は、寂しそうな自分の顔を想像しつつ笑顔で途中退出なさってください。
あと、ここに書くのはあくまで作り手側(主に自分)の話なので、皆様は観客側としてのご意見を大切に持っていただきたいです。自分自身を大切に。自分ファーストで。何かと気遣いの多い世の中ですから。

〜 * 〜 * 〜 * 〜 * 〜 * 〜 * 〜

先日(6/2〜4 @新宿眼科画廊)上演しました『ワタシが私であるために』。
ロマングラスが団体化して初めての本公演でした。

この作品を構想し出したのは、2022年10月の終わり頃でした。
その頃、「次どうしよう…」と思っていた髙山青年は、同時にロマングラスの団体化をも構想していました。2つの企画を同時進行はこの界隈だとよくあることですが、1つの企画+運営面の改革は初めてで、頭の中はミックスシェイク。ただぼんやりと、「団体化した意義のある作品を上演したい」と思うばかりでした。

そんなとき、以前から(これまたぼんやり)考えていた〈演劇を舞台にした作品〉をやるのはどうか、と思いたったわけです。しかし、それは簡単なことではありません。簡単ではないからこそ、思いついても実行してこなかったわけですから。

シンプルに身近すぎるんです。身近というか、肉薄しすぎているというか、その世界がイコール自分が属している世界というかなんというか…。
そういった題材を、自分は極力避けてきた節がありました。自分が把握しきれないというのはもちろん、感情的になりすぎてしまうし、そうなると筆に見立てたキーボードが荒れる。そして、自分自身が露呈しそうな気がして、どうしてもその勇気が持てなかったんです。

でも、Vol,2『15万ヘルツの告白』やVol,3『それは、レモンと白昼夢』を通して、自分は自分と向き合う事を試みていました。弱い部分も、強い部分も、自分の汚さも、周囲との関係で自分がどう変化しているのかも、全てを物語と擦り合わせて、作品として落とし込む。それができないものかを、ずっと模索していました。
だからこそ、〈演劇を舞台にした作品〉を今なら書けるんじゃないかと、書いてみようと思い立ったわけです。

構想の段階で主要となる登場人物は、実は5人でした。(実際の上演では4人)
Sと役者として関わる同僚的立ち位置のキャラクターがいたんです。
でも、その人物を深く広げていったとき、そのキャラクターが作品の必然性とマッチしない気がしてきました。登場させるからには、キャラクターがこのキャラクターとして作品に登場させる必然性がある。自分は「あなたはあなたで良いよ」と稽古場で肯定したいと常々思っているのですが、その必然性がないキャラクターを受けた役者さんに、その言葉がどれほど響くでしょうか?そのキャラクターに、自分が稽古場にいることに、どれほど意義を感じられるでしょうか?
だから自分は、その幻の5人目を幻として終わらせることにしました。彼(彼女)が彼(彼女)であるための理由を見つけてあげられなかった自分を不甲斐なく、申し訳なく思いながら。
その代わり、彼(彼女)が担うはずだった要素を、他の登場人物に散りばめました。そういう意味では、彼(彼女)はあの作中で生きていたと信じています。

いざ執筆し始めたとき、自分でも驚くほどサラサラと言葉が出てきました。
オファーを受けてくれた役者さんたちへのあてがきということもありますが、彼らが自分語りをしてくれるんです。「私はこう思ってて〜」「あいつこうでさぁ」みたいな。で、時々「えっと…」って言葉を詰まらせたりする。そういうとき、「じゃあこれはどう思ってたの?」と聞くと、「あ、それはこう」と言ってくれて。
「劇作は執筆中は孤独だ」とよく耳にしますし、自分もそう思ってきました。でも、今回はむしろパソコンを開けば、そこに自分と向き合ってくれるキャラクターたちがいる。すごく素敵な時間を過ごせました。

○Sとナズナ。
Sは強いです。芯がある。でも、それはきっと、世間で言われる「強い」とは少しズレているんです。つまり、「弱い」と言われるところも少しズレている。それをわかって付き合っていたナズナ。だからこそ、2人は共にいることができたのだと思います。
ナズナはSに憧れを持っていました。それは作中でも明言しています。でも、きっとSもナズナに〈自分が持っていないものを持っている〉というナズナと同種の憧れを持っていたんだと思います。もしかしたらナズナ同様、ある種の神格化すらしていたかもしれません。
本作の肝はそこでした。Sとナズナは、そこの擦り合わせや伝え方が良くなかった。いや、たとえ擦り合わせていても、ナズナの結末は変わらなかったでしょう。Sをある種神格化していたナズナにとって、Sという存在を通して自分の弱さを突きつけられていたナズナにとっては、もはや「身近な存在になってしまったこと」が心の中に矛盾と葛藤の連鎖を生んだ原因なんです。そして、その苦悩を取り除くことができなかった。だからこそ、あの結末をナズナは選んだのだと思います。
本当の意味でSと対等になるには、芝居という呪縛から脱却するしかありません。でも、肉体世界でナズナはそれを選びきれなかった。そしてSは、そんな彼女の苦悩に気づくことができなかった。
……のだと、作り手側としては思っています。もちろん、観客の皆様の捉え方や解釈はそれぞれなので、それは一切否定しません。むしろ色んな捉え方をして楽しんでいただきたいです。二次創作大歓迎です。あ、それを上演するときはご連絡ください。光の速さで予約します。

○宇宙人は自分が大学生の頃、授業で書いたキャラクターでした。(ちなみにその作品は、露出狂の格好をした宇宙人が女子高生と電話ボックスに閉じ込められるという会話劇でした。全くコメディじゃないのに、言うと笑われます。くそう。)
「なぜ宇宙人である必要があるのか?」という質問を1度されたのでお答えします。
演劇を題材にするとき、自分は〈本音と建前〉を描こうと決めていました。そこに、その本音と建前から脱却した存在が欲しかったんです。でも、それはすごく難しいキャラクターで。ただ心が読める超能力者では〈演技してしまう人間の反射的行動〉を理解・共感できてしまう。それではSや物語に影響を与える存在として成立しないと自分は考えました。(動物にするかとも思いましたが、それもまた本筋とブレそうな気がしたのでやめました)
だからこそ、“地球人を想う宇宙人”でした。
好意を抱いた人が亡くなった宇宙人にとって、人間の嘘という概念は、不可思議かつとても魅力的なものに見えたでしょう。なにせ恋愛には〈本音と建前〉が必要不可欠(だと自分では思っています)ですから。
そして、これはおそらくですが、宇宙人は初めてSと出会ったとき、彼女が月宮に行って何をしようとしているかを読み取ったんです。だから声をかけた。少なくとも〈死〉という概念を理解しているわけです。なぜなら、ユーリイという想い人を亡くしているから。
Sにとっても、宇宙人にとっても、それは運命的な出会いだったのかもしれません。

○演出家は…、多分書く側も演る側も大変だったのではないでしょうか。
Sを導く役割を担う演出家は、ある程度のゴールを見据えていないといけない。そのために、時にSに対して厳しいことを言い、最後に必ずフォローを入れる。でも、決して完璧超人ではあってはいけない。もがき、苦しみ、自分自身も正解を模索している1人の人間でなくてはならない。
世間で言われる「偉そうな演出家」も、裏では必ず眠れない夜を過ごしている。自分はそう思っています。(そうであってほしいとすら思ってます)
だからこそ、演出家という存在を描くのは難しかったです。自分にとって、彼女が1番身近な立場だからです。感覚としては同族です。同族嫌悪すらしそうになります。
彼女はSに自分を重ねている部分があったのだと思っています。Sは親友とも呼ぶべきナズナを亡くしましたが、彼女もまた、自分の稽古に参加していたナズナを失った。それに悔いず、悩まない演出家はいない。(…と、自分は信じています。 エゴです。エゴ100%です。)
だから演出家は、Sのことは助けてあげたかった。助けるなんて傲慢だと思っていたかは知りませんが、少なくとも、前をむかせてあげたかった。SがSとして芝居を続けていくために、ナズナという過去から解き放ってあげたかった。そんな気持ちがあったように思います。
でも、演出家(他者)がなんと言おうと、最後に決めるのはS自身です。演出家はSに前を向くキッカケは作れました。でも、Sは物語の最後まで葛藤していました。

Y「Sさん。……その、今でも自分がナズナさんを殺したって思ってます?」
S「……思わないわけなくない? ワタシがいなけりゃ、あいつがあそこまで追い込まれることなかったじゃん? 一番そばにいといて、あいつを一番苦しめてたわけだしさ。みんなは「違う」って言ってくれるけど、あいつがどう思ってるかはわかんないし。
    文字通り、死ぬほど恨んでるかもしれないよね。」

演出家は絶対ではありません。作品面の決定権は持っていますが、役者の人生の決定権を持っているわけではない。そこまで干渉するのは職権濫用です。職域を犯しています。パワーハラスメントです。
だからこそ、物語ラストシーンへと繋がるわけです。

……と、ここまで話してきて、少しだけ演出面のお話。
今回、電車のシーンが2回出てきました。が、実は書いている&演出をしているときに「このシーンはやっぱりこれだな」と思ったことがあります。
・電車
・星を見にいく
・死の匂いが漂っている
・2人向かい合わせで座り、思っている事を吐露し合う
……どこかで聞いたことありませんか?
はい、宮沢賢治氏の名作『銀河鉄道の夜』です。それを色濃く感じたのは、Sとナズナの乗車シーンでした。だから会場で見てくださった方はお分かりかと思いますが、そのシーンの背景は星空でした。(あれは作るのに苦労した…)
『銀河鉄道の夜』は芝居の題材としてとてもよく使われているものです。演劇を題材にした本作とはリンクするものだと自分は考えていました。それは、照明を担当していた木村からも「そうでしょ?」と言われた事です。(すげっ)

〜 * 〜 * 〜 * 〜 * 〜 * 〜 * 〜

さて、長々と書いてきましたが、そろそろ自分の筆に見立てたキーボードを叩く指が限界を迎えそうです。ここまで特急電車のごとくノンストップで書いてきたので。もう間もなく自分の瞼すら限界を迎えます。ので、今日はこの辺で失礼します。閉店ガラガラ。またお会いしましょう。

『ワタシが私であるために』を…
観に来てくださった皆様、本当に有難うございました。
一緒に作ってくれた座組みのメンバー、本当に有難う。

それではまたいつの日か〜。

P.S.
Sの使う「私」と「ワタシ」ですが、戯曲上では使い分けて書かれています。
それはどんな使い分けかというと……、あ、すみません。もう指が限界でs。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?