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祖母について

【正確な医療知識に基づいて執筆されたものではありません。あくまで曖昧な記憶を頼りに書かれたものである事をご了承下さい】


「呼吸が激しく、返事も出来ない状態です。なるべく早く来て下さい」

祖母が入院している病院の看護師から連絡が入り、祖父と共に車で駆けつける。
祖母は大部屋から個室に移されていた。心電図には0の表示が映されていた。祖父と二人、呆然となる。
担当医が外来から戻り、祖母の脈拍や瞳孔を調べる。
あ、これは例の「御臨終です」が聞けるのではないか、と思った。だが、医者はなかなかその定番の台詞を吐かない。
「元々心不全であったことと、肺炎を併発してしまったので、ご高齢の身体には……抗生物質を投与して経過を見ていたんですが……」
アレ、まだ言わないな。やはりアレは映画やドラマの中だけのことで、最近は特にその言葉を使わないのかもしれない。
「残念ながら……御臨終です」
あ、言った。

2022年6月24日金曜日午前10時59分。
祖母が亡くなった。享年82歳。
入院からわずか一週間強であった。

葬儀場も決めていなかったので、とりあえず遺体を別の安置所のような部屋に移してもらう。
仕事に行っていた母に電話をかける。
祖父と二人、遺体の隣で、どこの葬儀場が良いのか調べ始める。家族葬で良いということになったが、どこも高い。こんなにかかるのかと二人で驚いた。
やがて母が到着した。
母は祖母の遺体を見て、泣いた。母が泣く姿などいつぶりだろうか。やはり娘なのだなぁと思った。

涙が出てスッキリしたのか、母はテキパキと駅前の葬儀場に決め、電話をかけた。
葬儀場の車が来て、祖母の遺体の入った棺を乗せ、出発した。
母と祖父は車で葬儀場に向かうことになった。私は、母が乗って来た通勤用の自転車に乗り、葬儀場がある駅前に着いた。煙草を持って来るのを忘れたので、コンビニで買い、一服してから葬儀場へ向かった。

母の兄も到着し、遺体に線香を上げた後、葬儀の段取りに入る。素人の私たちに担当の女性が丁寧な対応で今後の段取りを説明してくれた。後で聞くと、その方は私よりも年下であり、しかも本格的なお通夜と告別式を担当するのは今回が初めてなのだと言う(コロナ禍で一日で済ましてしまう遺族が多いのだそうだ)。偉すぎる。

土日を挟んで月曜日と火曜日にお通夜と告別式を行うことが決まり、詳細は明日決めましょうということで、一旦解散した。
私はバイトに行き、お通夜があるので、と月曜日の休みを貰い、帰ってきた。
明日は京都で自分が監督した映画の上映があるので、その準備(といっても着替えを詰める程度だが)をする。一日バタバタしてそれどころではなかったからだ。

土曜日、京都に行き、無事上映を終え、ホテルに戻る。カブ研究会の伊藤くんに電話をかける。彼にも80歳を超える祖母がいる。私の祖母が入院した直後、「お互い気をつけようね(一体何を気をつけるのだ)」と、一度長電話をしていたのだ。
事の経過を話す。そして、「ばあちゃん孝行したいなら今のうちにしといた方がいいよ」と付け加える。
しかし、私は孝行する気などさらさら無かった。

次の日、東京に戻り、堀くんと新作の脚本打ち合わせをやった後、帰宅する。

明けて27日月曜日にお通夜、28日火曜日に告別式があり、葬儀屋さんのご尽力のお陰で、滞りなく式が終わる。死ぬ程暑かった。火葬場の祖母の方が暑かっただろうが。

そして今日29日水曜日、何か備忘録的なモノを書き記そうと思い、こうして打ち込んでいる。

祖母との想い出を振り返ってみる。
私は祖母に対してあまり良い想い出が無い。しょっちゅう喧嘩ばかりしていた。

一番古い記憶では、「人生ゲーム」にハマっていた当時小学校低学年の私は、自作の双六を家で作っていたが、祖母はそれを迷路と勘違いし、勝手に色々と描き込んで私の創意工夫は台無しになり、泣き喚いた。

家でウルトラマンや仮面ライダーなどヒーロー番組のビデオを観ていると、祖母は「いつも同じようなモノばかり観て何が楽しいんだ」と罵ってきた。
「アンタが夕方ダラダラ観てる『相棒』だの『科捜研の女』だの2時間ドラマだの、毎回一緒じゃねぇか。何が違うんだ」と、そこでも喧嘩。私が昨今の刑事ドラマをマトモに観られないのは、この出来事が深く影響している。

朝食の調理は祖母が担当だったのだが、普通の目玉焼きで良いのに、妙にオリジナリティ溢れるスクランブルエッグ(野菜入り)で、これがすこぶる不味い。味噌汁も出汁をとってないのかすこぶる不味い。
黙って捨てていたらそれがバレて怒られたこともある。

高校受験、大学受験で私が深夜まで勉強していると、「いつまで起きているんだ」「どうせ勉強なんかしていないんだろう」と一方的な難癖をつけ、真夜中に怒鳴りあった。

決定的だったのは、私が中学生の頃、祖母から一方的に泥棒扱いされた事である。祖母の財布からお金を抜き取ったというのだ。
泥棒なんて天地神明に誓ってやっていないのだが、盗んでいない証拠なぞ証明出来ようはずもなく、祖母は私に濡れ衣を掛けっぱなしなので、解決には至らなかった。

その時から「二度とコイツのことは許さない」と、硬く心に誓ったティーンエイジの私である。

祖母はマイペースな人間だったので、祖父や母とはしょっちゅう口論になっていた。
特に祖父とは、よくもまあこの夫婦が半世紀以上もやってこれたものだというぐらい、一日に何度も口論になっていた。理は大体祖父の方にあった。
祖父は几帳面な性格だったので、その辺がバランスが取れていたっちゃあ取れていたのか。

ただ、意外なのは、結婚のアプローチは祖父の方からだったということだ。同じ職場にいた祖母に何度もアプローチをかけ、結婚したのだという。どこがそんなに良かったのか、今度聞いてみよう。

祖母は出かけるのが好きな人だったと思う。ママさん倶楽部みたいな所の旅行でちょこちょこ家を空けていた。祖母が居ないというだけで家庭には平和な空気が漂っていたことを思い出す。本当にトラブルメーカーだったのだ。

そんな祖母も、私が高校生の頃に腰を悪くし(脊柱管狭窄症だったか)、コロナ禍になってからはめっきり家を出ることは無くなった。

その頃から血糖値の高騰が始まり、認知症も発症し始めていた。家族の間で、祖母を介護することになったら大変だぞ、などと話していた。

6月16日木曜日の深夜、祖母が起きてきて、「心臓が痛い」などと言い出した。家族一同、大袈裟な、などと思ったが、痛がり方が尋常ではないので、私と母で、夜間もやっている病院に車で向かう。

1時間以上の精密検査の後、心不全の恐れがあるとして、即入院となった。心臓の血管がボロボロだったという。
個室で少し苦しそうに寝ている祖母に適当に声をかけ、その日は家に帰った。

30日に手術することになり、それまでは抗生物質等で経過を見ることになった。
コロナ禍で、病室に入れる人数が制限されていたので、病院からの連絡がない限り、見舞いには行けなかった。
ただ、本人の意識もハッキリしているし、大事にはならないだろうと、家族で話していた。

ところが、22日水曜日午前に、容態が急変したとのことで、祖父と二人車で病院に駆けつけた。
担当医に肺のレントゲン写真を見せられる。真っ白になっていた。
肺炎を併発したのだ。
高齢での肺炎は死に繋がる、と医者から説明があった。
心臓が悪いのでただでさえ酸素を送り込まなければならない所に、肺炎で呼吸が浅くなってしまうので、ますます悪化するばかりである、と。

医者から、とりあえず抗生物質で対処はしていきますが、延命治療はなさいますか、と聞かれた。
聞かれても、なんと答えたらいいのか分からない。本人の意思とは無関係に、こちらが判断しなければいけない問題なのか。しかし、本人に正常な判断ができる筈もない。

祖父が、「延命治療は結構です」と答えた。

大部屋に移されていた祖母に面会した。酸素吸入機をつけ、かなり荒々しく呼吸している。
「苦しい、苦しい」と言い、こちらを見つめている。

ああ、この人、もう助からないんだな、と思った。私は思わず祖母の手を握った。なんてベタなことやってるんだろう、と内心思いながら。
「来週には手術だから。それまで頑張れ」とだけ言った。祖母は頷いた。祖父は殆ど言葉を発しなかった。何を言えばいいのか分からなかったのだろう。

帰りの車中や帰宅後、祖父は何度も「肺炎じゃ、もう助からないな」と呟いていた。自分に言い聞かせていたのだろうか。

一番キツかったのはこの日である。弱々しい祖母を見て、手も足も出ず、「頑張れ」としか声をかけられなかった。空はどんより曇っていた。

仕事が休みで家に居た父に、「これで今から喪服買ってこい」と、数枚の一万円札と、下取り用のジャケットを渡され、近くの紳士服店に向かった。何も分からないので、店員さんに勧められるまま、とりあえず一番安い物を選ぶ。
フワフワした気持ちで帰宅する。まだ早いんじゃないか、などと考えていた。

いつどうなるか分からないということで、とりあえず出来上がった喪服を取りに行った事以外に外出は控えていた。

24日金曜日午前10時20分頃。
明日の京都行きの為に着替えなど準備しなきゃなぁと思いつつダラダラしていたところに、電話が鳴った。

「呼吸が激しく、返事も出来ない状態です。なるべく早く来て下さい」

祖母が入院している病院の看護師から連絡が入り、祖父と共に車で駆けつける。
祖母は大部屋から個室に移されていた。心電図には0の表示が映されていた。祖父と二人、呆然となる。

「先生が外来に行っておりますので、しばらくお待ち下さい」と看護師に言われ、心臓の止まった祖母を前に私と祖父は待ちぼうけとなった。
お待ち下さい、と言われても、何をしたら良いのか。

もう死んでいると思われる祖母を前にしても、涙は出なかった。ただただ呆然としていた。呆気ないものだな、と思った。

おもむろに祖父が、祖母の体を揺すり、
「おい、頑張れ、頑張れ」などと声をかけた。
そんな事言っても、もう本人には届かないのに。
そこでようやく、自分にも少し胸に迫るものがあった。

やがて、担当医が外来から戻り、祖母の脈拍や瞳孔を調べる。
「残念ながら……御臨終です」

2022年6月24日金曜日午前10時59分。
祖母が亡くなった。享年82歳。
入院からわずか一週間強であった。

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