2/16の文章

 なぜこのような長い文章を書くことになったのか。まずは私のXでの投稿を見ていただきたい。

 この投稿に対し、それは森山さんに対して失礼なのではないか、ギャラが安かったから森山さんをキャスティングしたのだ、森山さんは浜辺美波さんの代わりにキャスティングされたのだ、という言葉を見かけたので、私は以下の文章を書いたのである。これによって理解を得られないのであれば、もう私には申し開きの言葉は見つからない。



 素人の私が言うのも烏滸がましいですが、映画制作において監督というのは集まった人間の個性や能力、与えられた時間と環境の中で、何が出来るか、どこまで出来るかというのを常に考えて見極めています。
 スタッフや俳優は自分の仕事に責任を持ちます。手を抜けば(観客には分からずとも)それが画面に映るからです。
 監督はそんなスタッフや俳優の一人ひとりに「懸けて」ます。最良の仕事をしてもらうように半ば祈ってます。
 そうして出来上がった映画を後から見返して、あれはもっとこうしておけば良かったという後悔はあるにせよ、「俳優やスタッフが○○だったら」という考えにはならない、というより、そんな想像は無意味です。それは「別の映画を作る」ということですから。
 だから「お金があれば誰をキャスティングしたかった?」という妄想は、あくまで「遊び」です。そんな事を本気で考える監督なんていません。当たり前です。当たり前田のクラッカーです。
 ここまで噛み砕いてもまだ理解できないという方が居られるのであれば、私は二度と舞台挨拶には立ちません。何を言っても受け入れてもらえないでしょうから。

 最高のスタッフとキャストが集まった!みたいに熱く語る方がいらっしゃいますが、最高も最低も本来無いのです。集まった人間が最大限の力を出して出来上がったものが今ある作品(映画)なのであって、ギャランティの差異はともかく、それぞれに優劣があると考えるのは間違いです。
 最高の力を発揮してもらいそれを活かす事が監督の役目であって、「○○に出演してもらったら/○○がスタッフだったら、もっと良い映画が出来た」などと本気で考えている監督なんて、一人も居ないはずです。


 あまりにも心外だったのでつらつら書き連ねてしまいました。怒りに任せるとロクな事になりませんね。大変失礼いたしました。

 添付画像は『野球どアホウ未亡人』の主演俳優オーディションの募集要項に載せた文章ですが、主演に限らず全ての俳優に対して、ここに書かれたような態度で臨んでいます。

 役に没入させるのではなく、俳優自身の魅力を役に活かそうとして演出してきたつもりです。それが上手くいったかどうかは各自ご判断下さい。

 これ以上弁明の余地は無いのでもう終わりにしますが、歴史にifが無いように、映画にもifはありません。出来上がったものが全てであり、最高も最低もありません

 以上が弁明である。
 もうこんな野暮なことは書きたくないのでこれっきりにするつもりだが、この文章を書いたときは、私という人間が誤解の元に一方的に軽んじられている状況が我慢ならなかったのだ。
 我慢ならなかったのである。

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