『殴る群像』批判

観る前から分かってはいたのだが、櫻井保幸監督『殴る群像』は、ハッキリつまらなかった。だったら観なければいいと思われる方もいるだろうが、私は本作に出演したとある女優のファンなので、観ないわけにはいかなかったのである。

これから書き連ねることは、この映画を観ながら、自分の、映画に対する考えを改めて再確認するもので、本作をお気に召した方、鑑賞を楽しみにしている方には、不快に思われる箇所が幾つもあるかと思うので、読み進めることは控えていただきたい。

本作は、俳優である櫻井保幸氏が、関係者に対して自らカメラを回し、「櫻井保幸について」の印象や、彼に対する説教などを、インタビュー形式でまとめた「ドキュメンタリー」パートと、櫻井氏が脚本を書き、それを劇映画の要領で撮影した「フィクション」パートとが、最初は別個に分かれているが、映画が進むにつれて徐々に渾然一体となっていく形となっている。

タイトルの「殴る群像」とは、カメラを向けられた人々(「ドキュメンタリー」パートと「フィクション」パートの両方にそれぞれ存在している)が口にする櫻井氏に対する「印象」が、櫻井氏本人が自覚する「自己」とはすれ違い、そのすれ違いが櫻井氏に「暴力」となって降りかかる様を例えたものだ。櫻井氏が自覚する「自己」は、実体験を基にしたと思われる「フィクション」場面によって表現されている。

被写体となった人々は、櫻井氏に対して褒めることもあれば、貶すようなことも言う。櫻井氏にとってそれは嬉しくもあるし、誰も自分を分かってくれていないのではないかと不安にもなるし、とにかく他人から発せられる言葉によって彼の心は掻き乱される。

「殴る」「群像」とは、すなわち、「殴られる」「自分」であり、傷ついた櫻井氏は夕暮れの海に入水自殺する寸前まで追い詰められる(それが事実なのか妄想の中の出来事なのかは曖昧にされる)のだが、私が引っかかるのは、櫻井氏の「被害者意識」は充分伝わったが、では、櫻井氏が、自分が「加害者である」ということを果たしてどこまで自覚していたのだろうか、ということだ。

カメラを向けるという行為それ自体が、被写体である人間にとって、ある種の「暴力」であることは、映画を撮ったことのある人間なら誰でも理解できるはずだ。
映画に限ったことではなく、プライベートでもなんでもいいが、カメラを向けられた被写体は、多少なりともカメラを意識せざるを得なくなる。
画面の中にいる被写体がたとえ自然体であったとしても、それは「自然体でいても良いのだ」と意識しているわけで、真に「自然」だとは言い難い(だから本作のチラシに書かれた「これはフィクションなのか、ドキュメンタリーなのか。」という問い自体、全く無意味だと言えるのだが、そこに突っ込むのはやめておく)。

つまり(子どもなどを除いて)被写体となる人間にある種の「抑圧」を強いる、これが「カメラを向ける」ということの「暴力」である。

カメラに映された人々からの言葉の数々に、殴られ打ちのめされる櫻井氏の姿が殊更悲劇的に強調されるが、先に殴りかかったのは櫻井氏の方だ。カメラに映された「群像」はただ「殴り返した」だけに過ぎない。

「殴る」「群像」=「殴られる」「自分」の前に、「殴る」「自分」=「殴られる」「群像」がいることを櫻井氏は自覚していただろうか。映画を観る限りそれは伝わってこなかった。

いや、本当に「群像」は「殴り返した」のだろうか。櫻井氏はこの映画の中で真に「殴られた」のだろうか。

カメラに映された人々が発する櫻井氏への「印象」と、櫻井氏が意識する「自己」との相違を、彼は「殴られた」と受け取める。

しかし、カメラを向けられた人々が発する「言葉」は、カメラを向けるという「暴力」に晒された人々の僅かな「抵抗」に過ぎないのではないか。

敵兵に銃を胸元に突きつけられた兵士を想像してほしい。その兵士が敵兵に向かって唾を吐いたとして、その行為が果たして「暴力」と言えるほどのものだろうか。

「殴られた」「殴り返された」などと嘆き悲しむのはまだ早いのではないか。

この映画で描かれた、櫻井氏が、その恋人(二田絢乃)や娼婦(森山みつき)、公園の浮浪者(伊藤慶徳)などとのやり取りから、自ずと意識した「自己」を、櫻井氏は胸の内に秘めたままだ。
それらが事実かどうかはどうでもいい。また、映画の中で描かなかった「自己」もあるのかもしれないが、なぜ描かないのだとは言わない。

問題は、櫻井氏が、色々な人々とのやり取りの中で意識せざるを得なかった「自分」を、インタビューに応えた人々にぶつけたのかどうかだ。

「自分は、あなた方が思っているような人間ではありません。私はこういう人間です」ということを、櫻井氏はカメラを向けた人々に、その場で、あるいは日を改めてでもいいが、告白しただろうか。

確かにその告白は勇気を必要とする。
相手に深い傷を負わすこともあるかもしれない。
今まで築いてきた人間関係をいとも簡単に破壊するかもしれない。
心底落胆され、絶縁する人間も出てくるだろう。

櫻井氏が真に「殴られる」のは、その瞬間ではないだろうか。

この映画自体が告白なのだ、と櫻井氏は仰るかもしれないが、だとしたらそれを観た人々の反応までまるごと含めて映画にするべきだったのではないか。

数々の「出来事」の連なりで映画は出来ている。
そしてキャラクター描写は、その出来事に対して登場人物がどう反応(リアクション)したかによってでしかなし得ない。

私が本作をつまらないというのは、他人から言葉を投げかけられた櫻井氏が、相手に投げ返すことをせず、自分の殻に閉じこもってしまうという反応しか示さないからだ。
映画はどんどん矮小化し、数十名に上る出演者との関係もただ断ち切られるだけで、少しも発展しないし、変化もしない。

殴られる覚悟も無いのにただ無闇矢鱈に相手を殴り、言い返されてもベソをかくことしかできない、そんなつまらない人間が映っているだけの映画の、どこを面白がれというのか。

櫻井氏のご両親を映して映画は終わる。
彼らに対して櫻井氏が真の「自分」を曝け出したとき、それでも彼らは櫻井氏を受け入れてくれるだろうか。それとも突き放すだろうか。

映画の面白さは、そこにかかっているのではないだろうか

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