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共感されたいというより、見守っていて欲しい。


とは言いつつ、
そりゃ共感されたら嬉しい。

冒頭から、論点が崩壊してしまった

でも、共感されないといけない。っていうある種の同調圧力みたいなときってないだろうか?

僕は、自分が納得してやっていることであれば、
誰にも共感されなくてもいいと思って(やって)いる。

だから無理に共感もしたくない。

自分の感情に蓋をしてまで、何かをすることに苦しくなってしまったからだ。

興味がないものには、相手を傷つけないように配慮しながら、興味がないと言える人間でありたい。

でもね、共感されなくてもいいから、見守っていて欲しいって気持ちはあるんです。最近そんな自分の気持ちに気付きました。

「あなたがやりたいなら、やってみればいいじゃん。」って、
誰かに見守っていて欲しいのではないか?と

これってどこかで感じたことのあるじんわりとした温かみだなって思ったんです。

そうだ、家族だ。

あなたの事を否定せず、好きな事をやってみたらいい。あなたがそれで喜ぶのだったら私も応援するよという態度。

僕の家庭が100%そうだったか?と言われればそうではありません。むしろ職人気質の父親の影響をもろに受けた厳格な家庭だったので、やろうとすることを肯定された事は少なかったと思います。

それでも、たしかにそういう瞬間はありました。

そしてその瞬間を明確に覚えています。

とても嬉しかった。

僕がやりたいと言う申し出に対して、家族や両親に共感されていた訳ではありません。「あなたがやってみたいなら、やってみれば。」と言われただけ。

でも、その時は何か満たされた、自分を肯定された気がしたんです。

そんな関係性を、家族(肉親や婚姻、パートナー)以外の場所でも作ることができれば、もっといろんな人が生きやすくなり、本当に自分がやりたいことに挑戦しやすくなる。毎日を一所懸命に生きる人が肯定されて、自分の周りがじんわり温かくなっていくんじゃないかと思うんです。

誰かに共感される為だけに行動する。といった健康的ではない承認欲求を満たしにいくのではなく、先の見えない時代だからこそ、自分の納得いく選択を肯定してくれる家族(のような存在)が大事なんじゃないかと思っています。

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